普通の高校教師が、起業家になるまで
2022年5月に米コロンビア大学教育大学院の修士課程を終え、日本に帰国した元公立高校教員の田原佑介さん。卒業後、海外進学をサポートする教育ベンチャーLOOPAL(ルーパル)を起業。今年から生徒を募集し、海外大学への学部進学、大学院進学を支援するサービスを開始した。
もともと田原さんは埼玉県の公立高校の英語教員。昨年留学するまで一度も留学経験はなく、壮大な夢もなかったという。当時30歳。そんな若者が、なぜ米国の教育大学院に留学しようと思ったのだろうか。
田原さんは教員時代に2つの高校で計8年間勤務をした。その間に、6年間ほど「授業力の向上を目指す」教育NPOに所属し、活動した。そこでは、各教員の授業力に差があるのを前提として、組織的に教員の授業力をアップさせるにはどうすればいいか、よりよい教育環境をつくるための学校や組織づくりはどうあるべきか、といったことに興味を持つようになった。その流れで、経済産業省「未来の教室」実証事業である「Hero Makers」などに参加し、地元の教育委員会にも提言を行った。しかし同時に、1人の公務員がやれることの限界を感じるようになったそうだ。
「ほかにも、新たな学校づくりの1つとして、生徒の『海外大学への進学』をサポートする体制を実現したいと考えました。そもそも偏差値偏重で評価されがちな日本の大学受験に、なじまない子は少なくありません。もし別の評価軸があれば、輝ける子はたくさんいるはずなのに、もったいないと考えていました。世界を見れば、有力な大学はたくさんあり、それぞれの大学が評価し、求めている学生はさまざまだからです」
実際、田原さんの生徒の1人は「日本の大学より魅力的だ」という理由でオランダの大学に留学したそうだ。留学準備は日本の公立高校のカリキュラムでも、十分に対応できたという。
「たとえ公立高に通っていても海外進学は可能なのです。しかし、最終的に海外大学への進学をサポートする体制づくりは失敗に終わってしまいました。その時、自分が考えている新しい仕組みをつくれる教育者には、いったいどうすればなれるのか、そう考えたのです。その結果、自らも教育イノベーションを学ぶため、海外大学院への留学を考えるようになりました」
海外大学院への留学準備を始めたのは2020年。大学受験を控える高校3年生の担任をしながらだった。仕事に専念する一方で、主に早朝と夜、それ以外の空き時間も利用して勉強を続けた。ときには、受験勉強をする生徒の傍らで、自らも試験対策の勉強をしていたという。そのかいあって、いくつかの米国の教育大学院に応募したところ、コロンビア大学教育大学院に奨学金付きで合格。ほかにもフルブライト奨学金など計3つの奨学金を受けるという、すばらしい条件で留学生活がスタートした。21年秋からのコロンビア大学教育大学院での留学生活は、どのようなものであったのだろうか。
米国で見えてきた「日本の公教育のよさ」
「勉強はハードでしたが、大学がニューヨークにあったので、学内外のいろんな人から話を聞くことができましたし、人的ネットワークも広げることになりました。また、ラッキーなことに20年度と比べコロナ禍による規制も緩和され、学内も正常化へと向かっていたため、日本で想像されるような困難はそれほどありませんでした」
米国の教育のよいところは、視野が広がることだという。大学院の学生は学校関係者からNPO、教育関連企業の出身者など、さまざま。田原さんは教育イノベーターを育成するコースを専攻。通常の授業のほか、実習として地元の学校のコンサルティングを行うなど理論と実践を並行しつつ、世界各国からやってきた学生たちと深い議論をすることで、さまざまな国の教育観を知り、広い視野と思考の幅を持つことができた。
「米国の教育はリーダーや研究者といった天才を伸ばす力はすごいものがあります。ただ、そう感じる一方で、外に出てみたからこそ日本の公教育のよさも改めて実感しました。日本の教育はやはり基礎的な学力が強く、皆が読み書きや計算もできるし、教育環境のスタンダードが高い。しかし、米国では、必ずしもそうではありません。ものすごくよい教育環境がある一方で、そうではない教育環境もある。その違いが明確に見えたことは勉強になりました」
留学して得たものは「チャレンジする姿勢」だ。年齢に関係なくチャレンジすること、学生だけではなく、教員が起業したり、NPOを立ち上げたり、新しいことにチャレンジすること。そうしたチャレンジを奨励し、応援する雰囲気がアメリカにはあるという。
「年齢を聞かれ、自分は30歳だと言うと、多くの人たちが、まだ若いから何でもチャレンジできるじゃないかと言います。日本の場合、教員をしていて持ち家があって子どもいますというと、もう人生は決まったように判断されてしまう。年齢に関係なく、いつでもチャレンジできるというマインドを得たことは、本当に大きな成果だと思っています」
田原さんは留学中、「Gakkatsu(がっかつ)」という日本人を集めた勉強会も開催した。
「コロンビア大学教育大学院で学んでいるとき、日本人同士のつながりが薄いと感じていました。日本から留学して、法律や政策、ビジネスを学んでいる人は帰国するとリーダー的な立場になる人が多い。そうした人たちとのつながりこそ、また留学の資産です。将来、何らかのかたちでよいコラボレーションが生まれるかもしれない。そう思い、留学生が交流できる会を立ち上げました。当初は、ロールモデルになるような人を呼んで、ディスカッションして、ピザを食べながら親交を深めるといった活動をしていたのですが、その後学生団体を立ち上げることになり、今年の9月から第2期として継続される予定です」
「偏差値」だけで評価されない世界
コロンビア大学教育大学院で、さまざまなことを学んだ田原さんだが、改めて日本の教育をどのように変えていきたいと考えているのだろうか。
「国際的に通用する生徒を育てたいと考えています。そのためには、目標や方向性をきちんと定めて、生徒に必要な力をつけることが重要です。実はもうひとつ見落としがちなのが、教員や保護者のマインドセットといえます。教員や保護者が、はからずも進学の邪魔をしてしまうことがあるのです。海外に通用する若者を育成するには、生徒に『世界に出なさい』というだけではだめで、教員や保護者にも、海外に進学する意味を考えてもらう必要があります」
田原さんは今、生徒や教員に「海外進学のススメ」を説いている。
「偏差値ベースで、進学や将来のキャリアがほぼ決まってしまい、偏差値レースに上手に乗れなければ、逆転するのが難しい。そんな日本の現状は、どうしてもおかしいと感じるのです。偏差値だけで評価される世界とは違う世界があってもいい、そう思いませんか。日本を一歩出てみれば、その世界は存在します。海外に進学し世界を見ることで、自分が評価されるフィールドがひとつではないことがわかるのです。日本だけではなく、世界中の企業で働くことができ、世界中どこにでも住めることを知ります。自分の世界が、その分広がるのです」
そして、これは生徒だけの話ではないと続ける。
「教員もそうです。教育に関わるのにも、いろいろなアプローチがあります。教員のキャリアだって、本来はさまざまな選択ができるはず。自由に生き方を選択できる幅が海外留学で広がるのです」
今、日本の教育の現場では、負担が増している一方で、従来の仕組みや慣習から脱却して、新たな教育のかたちをつくろうと、さまざまな試みに奮闘している教員たちがいるのも事実だ。
「私が立ち上げた、海外大学で教育を学ぶ留学生の勉強会には、米国以外にも多くの地域から日本人の学生が参加しています。日本の教育を変えるために、海外で勉強している人たちは、実は少なくありません。それだけ多くの人が、日本の教育に熱い気持ちを持っているのです。私も留学するに当たり、これといって誇れる実績はありませんでしたが、取り組んできたことがローカルな活動であっても、海外の大学はきちんとその経験を評価してくれ、結果として多くの学びを得る機会がありました。それは今後の活動にとって、とても貴重な経験でしたし、皆さんにもそういう選択肢があることを、ぜひ知ってほしいと思うのです」
そもそも田原さんが学校の先生を志したのは、それだけ教育というものを重視していたからだ。
「私の実家は、もともと地元で有名な商売をしており、大きな家に住み、小学生時代は何不自由のない生活をしていました。ところが、ある日突然厳しい状態になってしまった。そのとき、父は新しい会社を軌道に乗せようと一生懸命働いてくれましたし、母は私たち兄弟の勉強を見てくれたのです。勉強ができたときには褒め、できないときにも、ポジティブなフィードバックをくれるというように、熱心に教育してくれました。その結果、4人兄弟全員が国公立大学に進学することができたのです。今の私があるのは、間違いなく、父が家族のために働いてくれ、母が教育を大事にしてくれたおかげだと感じます。教育は人生を導くものだと感じました。私もそうした教育の力を信じているのです」
田原さんは起業したLOOPALで教員向けの海外留学や、海外進学カウンセラーを育成するパッケージも開発中だ。田原さんは生徒の海外進学サポートだけでなく、教員にもサポートを広げていくことで、新たなコミュニティーをつくり、そこからマインドセットの波を起こしていきたいと語る。
「私は教育ベンチャーで進学のサポートだけでなく、子どもたちにこれからの世界を生き抜くための力を身に付けさせたいと思っています。それと同時に、実際の学校の現場にも深く関わっていきたい。もし機会があるなら、副校長や、カリキュラムアドバイザーのような仕事をしてみたいですね。そして将来的には、起業をしつつ校長になって、地方で新たな事例をつくっていければと思っています」
(文:國貞文隆、写真:田原氏提供)