なぜ公立中学の教員が、米国名門大学院を目指したか

現在、米国に留学するまでの間はリモートで働きつつ、全国の学校を視察しながら放浪しているという中村柾(まさき)さん。インタビュー当日は京都に滞在中ということで、リモートで取材が行われたが、「取材の前に教え子がこちらに来ていたので会っていたんです」と笑顔で教えてくれた。その笑顔はまさに、やさしい先生の笑顔だ。この後は大阪の中学校を訪問する予定だと話す。

教え子の話になると、笑顔がこぼれる中村さん

そんな中村さんは今春、米国のハーバード、スタンフォード、コロンビアを含む、教育大学院に軒並み合格。フルブライト奨学金も取得し、今秋からスタンフォードの教育大学院の修士課程で学ぶ予定だ。だが、公立教員として充実した日々を送りながら、なぜ米国の教育大学院を目指すに至ったのだろうか。

中村さんは早稲田大学国際教養学部を卒業後、千葉の松戸市立中学校の英語科教員として社会人生活をスタートさせた。教員を目指したのは、中学時代に友達に勉強を教えて、テストの点数が上がったと感謝されたことで、自分も教えていて楽しかったという原体験がきっかけだという。

「自分が相手に貢献できることがうれしかったんです。そこから高等学校、大学に進むにつれ教育に対する関心は高まっていきました。社会的にも、教育に対してさまざまな批判や課題が出ていたこともあり、実際に教育現場のど真ん中で経験しなければ何もわからないのではないかと考え、公立中学校の教員になることにしました。そこで4年間教壇に立ち、他校への転勤を含め自分の進路を考え始めたとき、日頃から生徒たちに言っているように自分も何かにチャレンジしてみたくなりました。1回、外から日本の教育を見つめ直してみたいと思ったんです」

現在27歳。中村さんは大学時代に米国に留学していた経験もあり、いつかもう一度米国で学んでみたいという思いもあった。大学時代にはアフリカやインドの学校で教育ボランティアも経験し、教員時代にはコロナ禍の中、無償で子どもたちに教えるオンライン寺小屋を立ち上げるなど、自分でチャレンジできることは片っ端から行ってきたという自負もあった。

アフリカ・エスワティニの学校での授業の様子(左)、エスワティニの学校の子どもたちと(中)、インドの学校での授業の様子(右)

コロナ禍で立ち上げた「オンライン寺子屋」

「自分は一人の教員にすぎませんが、目の前に何か課題があれば、自分で行動を起こして社会的なインパクトを与えたい。そんな思いがありました。オンライン寺小屋も知り合いの教員たちに声をかけ、35人程度で始めたのですが、3~4日で100人ほどの生徒が集まり、結局、1年間で1000件以上の個別授業を行うことになりました。その経験から『教育×テクノロジー』の可能性を見いだしたのです。テクノロジーを利用して、いかに教育の質を高めていくのか。そうした関心が高まり、そこから先端分野を研究している米国の教育大学院を志すことにしたのです」

オンライン寺子屋での授業の様子

本格的な留学準備を開始したのは今から1年少し前の2021年4月。教員をしながら勉強する時間を確保するため、まず生活習慣を変えることから始めた。仕事を終え帰宅後は午後9時半に就寝。朝4時に起きて出勤まで勉強した。少ない時間で効率性、生産性を高めるためにきちんと睡眠時間を確保し、瞑想や運動する時間も設けた。SNSとアルコールは禁止、チョコよりもナッツを選ぶなど、健康にも気を使った。

英語については大学時代に米国に留学し、ある程度の素地はあったが、そこからもう一段階レベルアップする努力をした。大学院留学に必要なGREはコロナ禍で免除になった。大学の学部時代の成績は普通だったが、留学時の成績は非常によかった。フルブライト奨学金を取得できたのも、オンライン寺子屋をはじめとするこれまでの活動を総合的に評価されたことが大きいのでは、という。結果、最初にスタンフォード、次いでハーバード、コロンビアと立て続けに合格通知が届いた。

※米国にて大学院に進学するために必要とされるテスト

「自分の努力が報われたんだ、と思いました。1~2日はうれしくて、その余韻に浸っていました(笑)。当初はハーバードが第1志望だったのですが、プログラムの内容や、少人数教育であるところにひかれて最終的にスタンフォードを選ぶことにしました。スタンフォードで修士を終えた後、ハーバードに行くのもよいかもしれないと思っています。周りの人も自分が合格できるとは思っていなかったようです。そもそも受験方法が日本とは異なるので、自分でも本当に合格できるかどうか確信はありませんでした。しかし、何事も挑戦してみることが大事、そう思ってチャレンジしたことがよかったんだと思います」

合格したスタンフォードやハーバードには、直接足を運び見学してきた

若手教員から、教育界を変えていきたい

スタンフォードでは今秋から1年間教育大学院で学び、修士号を取得する予定だ。将来的には研究者になるというよりも、教育の実践の場で自分が学んだことを試してみたいと語る。そんな中村さんは今、オンライン寺小屋の取り組み以外に、若手教員から教育を変える「U29 Young Teachers Community」という組織も今年4月に発足させている。

「若い世代の教員たちの力を結集させて、何か新しいことをやってみたいとスタートさせました。自分もそうだったのですが、若い世代の教員は職員室で孤立してしまう場合も少なくないのです。せっかくよい意見や考えを持っているのに、なかなか上の人に意見を言えないまま、気づいたら前例踏襲を追認してしまっていることもあります。学校だけではない外のコミュニティをつくり、幅広く情報交換をすることで、さまざまな視点を持ち、柔軟な発想で今当たり前だとされていることを見直していければとU29の集まりをつくりました」

そんな若手教員を牽引する中村さんは、若手教員の視点から日本の教育現場には、どのような課題があると感じているのだろうか。

「こうでなければならない——そうした決まり事が多いように思います。例えば、卒業式は厳粛でなければならない。名簿は男女で分けなければいけない。新しいやり方を試すことがなかなか難しい、そんな雰囲気があるように感じます。それがもしかしたら教員だけでなく、生徒の思考も狭めているのだとしたら、それはあまりよくないでしょう。保守的であることが必要な場合もあるのですが、もっと柔軟に新しい考えを取り入れていくことで、教員を目指す若い世代も増えていくのではないかと感じています」

一般企業と比較できない、特殊な空間である「学校」

これは教員の世界だけの話ではない。大企業でも保守的で閉鎖的なところは少なくない。しかし、企業は倒産しそうになれば組織の見直しを始めるが、学校はそうではない。

「学校は毎年同じことを繰り返し、新しいことをしなくても倒産することもないという点で、企業などと比較すると特殊な空間かもしれません。知識の伝達の方法についても長年の慣習があり、旧来の方法を疑問に思わず、前例踏襲している部分もあります。企業では長い伝統を守るために、あるいは将来も生き残るために新しい試みを続けるべきだという考えがありますが、教員の世界では、競争原理もなくクビ切りもないために、そういった危機感を抱きづらいという部分も確かにあります。ただ、そんな学校も変わりつつあると私は思っています」

実際、コロナ禍で教育のICT化は進展した。明治から始まった公教育150年の歴史から見れば、チョーク、黒板の世界から1人に1台タブレットが導入されたことは非常に大きな変化だと中村さんは指摘する。

部活動指導中の様子(左)、オンライン授業での一コマ(右)

「自分がいた公立中では、コロナ禍が始まり、実際にオンライン授業をスタートさせるまでに1年半ほどの期間がかかりました。仕方のない側面もあるのですが、このスピード感ではやれないこともあり、実際にやってみたからこそ、もっとスピード感を持ってよりよい教育を子ども達に提供できるのではないかと感じたのです。だからこそ、若手教員を集めて現状を変えていきたい、もう一度外から日本の教育を見つめ直してみたいと思いました」

中村さんは、これから教員はどう変わっていけばいいと思っているのだろうか。

「私も将来、教員の世界にまた戻りたいと考えています。ただ、教員の形はこれから変わっていくかもしれません。副業を許可する企業が増えているように、教員をしながら、ほかの仕事に関わってもいいはずですし、私自身も、もし自分が子どもを持ったらこの働き方でいいのだろうか、と疑問に思うところもあります。私はこれから新たな教員像や、新たな働き方を示していきたいと考えています。もともと教員は、仕事の裁量が大きく、自分の思うことを次世代にダイレクトに伝えられる、しかも子どもたちの成長に貢献できるやりがいのある仕事です。教員という仕事はとてつもなく魅力があって、やりがいある仕事なんだよ、若い世代にもそう思ってもらえるように、私はこれから教員の世界を変えていきたいと思っています」

中村柾(なかむら・まさき)
1994年生まれ。早稲田大学国際教養学部卒。大学時代、米国に2年間留学し、現地の学校で学校初の日本人として教育実習を行った。その体験記を綴った本「日本人は1人だけ~アメリカ教育実習記~」を2016年4月に出版。米国留学後はアフリカのスワジランドで2ヶ月NGOのインターンを経験。ほかにも、インドのNGOでインターン、ホンジェラスの学校でボランティアの経験を重ねた。千葉県松戸市立中学校英語科教員を経て、ハーバード・スタンフォード・コロンビア教育大学院などに合格。この秋よりスタンフォードで学ぶ

(文:國貞文隆、写真:すべて中村氏提供)