元・公立高校教諭が見た「子ども幸福度1位」オランダの教育、日本とは何が違う? 「イエナプラン」だけではない多様な教育の魅力

「学校をやめなさい」と言ってくれた先生
日本の教育を外から見直してみたいと、公立高等学校の教員を辞めてオランダに移住したという三島菜央さん。そんな三島さんは高校の教員になるまで、どんな道を歩んできたのだろうか。
「小3からずっと吹奏楽をやっていて、高校では吹奏楽が強く、マーチングバンドとして、全国大会に出るような音楽漬けの生活を送る強豪校に進んだのですが、高2でやめることになりました。自分には音楽で食べていける才能がないと悟ったからです。そこから、じゃあ自分が今やっていることは、いったい何のためになるんだろうと考えてしまい、うつ状態になってしまった。学校にも行けず、本当にしんどかった時代です。しかしあるとき、現代文の先生が『このままだとあんた死ぬで。やめ、学校』と言ってくれた。あなたは強い意志がある子だから大検(大学入学資格検定、現・高等学校卒業程度認定試験)という道もある。その資格を取りなさいと勧めてくれたんです。『あんたは遠回りした人間にしか見えへん景色を見にいくと思って、その道を行きなさい』と。その言葉で突然世界が明るくなりました」
三島さんは親を説得し、大検の準備に取りかかった。それが人生で初めて「自由と責任」の重みを感じた体験だった。アルバイトをしながら、学校には通わず塾で勉強に励み、大検を取得し見事現役で大学合格を果たした。在学中は英語を学び、米国に留学、念のため、と教員免許も取得、一般企業への就職活動も行った。しかし、「自分が何者なのかをわかっていない状態で働くことはできない」と就職を決めずに大学を卒業した。
「就職を決めずに卒業したことは、親もあきれ顔でしたが、仕方ないと思ってくれたようです。ただ、そのとき『あんたはこれまでも自分でなんとかしてきたし、なんとかする子やと思っているから、信じてる』と言ってくれたんです。それはとてもうれしかったですね。結局、大学を卒業してから縁のあったベンチャー企業で一時、社長のかばん持ちをしていました。その中で、自分が得意とする英語と、好きなことを通して社会で貢献できる仕事は何かと考えているうちに、ふと学校の先生になろうと思ったんです。そこで東大阪の工業高校に勤めることになりました」
工業高校では1年間ほど常勤講師を務めた。そこではいろんなことを経験したが、「心を裸にしてぶつかってくる子どもたち」と接しながら、「教育とは何か」を考える密度の濃い1年を過ごすことができた。その後、大阪府の教員採用試験に合格し、府内の公立高校の教員を7年間務めた。

(写真:三島氏提供)
「結婚をして、子どもも産み、高校の教員として日々を送っていたのですが、日本の教育や教職員の働き方は何かおかしいと思い始めました。大人はなかなか変わらないし、そんな大人を見て、子どもも諦めている。何かがおかしいと思うけれど、自分にはまだ経験が少ない。もしかしたら、もっと広い視野を持って自分で教育を見つめ直すことが必要かもしれない。そうしなければ自分はよい教育者にはなれないのではないか。そう思って退職し、オランダに行こうと決めたのです」