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かつての礼儀の国はなぜ無礼なのか 自制に優越する正義

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中国は古来、儒教を信奉してきた。儒教は「礼教」という別名があるくらい、礼儀・マナーを尊重する。それが二千年間、政権のイデオロギーだった。

そんな中国を模倣したのが朝鮮半島で、「東方礼儀の国」という。20世紀の初めまで、少なく数えても朝鮮王朝の五百年間、礼儀の尊重では、おさおさ中国に劣らなかった。

そんな歴史をもつのなら、現代の中国・北朝鮮・韓国も「礼儀の国」であっていい。他国に対するエチケットをわきまえていて当然である。しかし現実はどうも、違うらしい。「礼儀の国」といっては、多分に違和感を覚えるだろう。

ミサイル発射と挑発・恫喝をくりかえす北朝鮮が典型であり、最たる事例は今年2月、他国の国際空港で暗殺事件を起こした所業である。どうも国家ぐるみの組織的な犯罪らしい。あまつさえ、マレーシア当局が捜査をすすめ、被疑者の身柄拘束を試みるや、自国にいるマレーシアの外交官に出国を禁じ、いわば「人質」にとってまで、事件をうやむやに葬り去ろうとした。そこには他国に対する敬意・礼譲など微塵も感じられない。

名実ともに大国になった中国も、他国に対する言動は粗暴・尊大である。たとえば一年あまり前のエピソード。2015年10月、習近平国家主席が国賓としてバッキンガム宮殿を訪れた。当時の中国をエリザベス女王が「非常に無礼だった」と評している。国家主席の護衛が英国側の警備に介入したり、赤絨毯の長さにクレームをつけたりしたからであろう。さすがに他国で人を殺(あや)めることはないけれども、相手に対する礼を欠く、という点、まったく変わらない。

自制に優越する正義

だとすれば、かつて「礼儀の国」であったはずの儒教国家が、いまや無礼きわまるわけで、歴史にもとづく論理は、どうやら通らぬらしい。これでは、「歴史の論理」と題する小欄の沽券、存亡に関わるので、少し確かめる必要がある。

礼・マナーというのは、もちろん儒教の専有物ではない。ひろく人間関係を円滑にするための行動規範であり、いやしくも人間が居住するところなら、古今東西、普遍的に存在する。そうした礼儀の背後にあるはずの意味や理想を、ことさら尊重すべき教義として体系づけたのが儒教であった。

ところが教義(ドグマ)なるものは、やがて独り歩きし、独尊化して、むしろ行動のほうを規定、支配する。それが長期にわたった儒教国家では、教義それ自体がなくなり、別のイデオロギーに代わっても、思考の枠組ないし言動のパターンが、牢乎(ろうこ)として残った。

その典型が「正義」である。正しい関係のありよう、というくらいの意味の漢語概念だが、儒教ではそれは礼儀の挙措をはじめ、一切がのっとるべき、いわば行動原理であった。自らの行為は、何より正しい原理にもとづくべし。これが大陸と半島の行動様式なので、「礼儀の国」ではなく実は「正義の国」である。

もはや儒教的な礼儀はもとより、正義も存在しない。しかし正しい関係のありよう・正しい原理が一切の行動を左右するパターンは、史上のそれと同じである。

礼はマナー、法はルール。他者との関係を円滑にするための自制・強制にほかならない。けれども大陸と半島には、自制に優越する正義がある。他国との関係を犠牲にしてまで、守らねばならぬその正体・価値は、なお杳(よう)としてつかめない。

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