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「菅 義偉」はいかに作られたか 抜擢力 知られざる政治手腕の原点

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秋田で生まれ育ち、地盤・看板のない横浜から身一つで官房長官にのし上がった。背景には菅独自の人心掌握力がある。

菅義偉はたたき上げの苦労人として知られる。

政治の世界の門をたたいたのは1975年、26歳のとき。最初は元衆議院議員、小此木彦三郎の秘書として11年修業し、38歳で横浜市議会議員に、47歳で衆議院選挙に当選した。

地盤・看板のない横浜から駆け上がってきた出世街道。そこには菅独特の「人心掌握力」があった。

小此木彦三郎の三男、小此木八郎・衆議院議員は回想する。「秘書時代は昔でいう書生さんのような生活だった。毎朝、おやじを迎えに家に来て朝飯を食べて外に出る。父も古風な人で菅さんも怒鳴られていた」。

今も記憶に残る場面がある。高校生の八郎が菅の結婚式に参加したとき。「来賓が『本当に一生懸命ですぐ靴底をすり減らすから何足か送ってあげた』とあいさつしていた。すごいな、と子どもながらに思った」。

実直さと支援者への献身の積み重ねで横浜でも徐々に味方が増える。後に最大の後援者となったのは横浜市西区に本社を置く相模鉄道だった。相鉄が路線を拡張する際には、建設・運輸族の小此木の下、細かな手配を請け負い、信頼を高めた。

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