経験を積むことで、紙とデジタルの差はなくなるかもしれない
スマホ、タブレット、パソコンなど、世界中でデジタル機器利用の低年齢化が進んでいる。2000年以降に生まれ、デジタルテクノロジーとともに育ってきた「デジタル世代」はデジタル機器に慣れるのも早く、もはや赤ちゃんがタブレットで動画を見たり、小学生がスマホでゲームを楽しんだり、中高生にもなればSNSを利用するのが当たり前になった。
その一方で、日本は学校教育におけるICTの利活用が諸外国から大きく後れを取っているのは周知のとおりだ。OECD(経済協力開発機構)が行っているPISA(国際学習到達度調査)2018では、学校教育におけるICT利活用スコアは断トツの最下位。コロナ禍で前倒しされたGIGAスクール構想により、21年4月から公立の小中学校で「1人1台端末」の活用が始まっているが、これで他国との溝が少しでも埋まったと考えるのは性急だ。ペンシルべニア大学教授のバトラー後藤裕子氏は、こう話す。
「日本もいよいよGIGAスクール構想が発進して、状況がよくなってきていることは事実だと思います。しかし、米国や中国をはじめとする多くの国ではコロナ禍で学校閉鎖を余儀なくされた際、ICT教育を推進する好機だと捉え積極的に取り組みました。ユネスコが行った20年の調査では、先進諸国の95%がオンライン授業を実施し、学校再開後も73%が対面と組み合わせてオンライン授業をしていました。日本も本格的にデジタル教育への活用を進めていかないと、デジタル化が加速する社会に十分に対応できなくなってしまうでしょう」
しかも日本は、経済的な格差によりICTを使っている子と使っていない子のデジタル格差が大きいという。義務教育段階におけるICTの活用が進めば、その解消にもつながるはずだが、こうした待ったなしの状況にあっても、日本には学校教育のデジタル化に慎重さを求める意見が今も少なくない。
24年に本格導入を目指しているデジタル教科書の議論は、その象徴だ。もちろん、理解度や学力への影響、有効な活用方法を検討する必要はあるが、紙かデジタルかの二者択一ではなく双方のメリットを生かし、デメリットを補う方法があるのではないだろうか。バトラー氏は「経験を積むことで紙とデジタルの差はなくなっていく可能性はある」と話す。
「大人は、ある程度の文字数を超えると紙のほうがいいという人が多いと思いますが、若い人の間ではデジタルのほうが楽という人が増えています。この世代差は、紙かデジタルかという物理的な違いではなく、“紙の読み”と“デジタルの読み”の経験によるところが大きいのではないかと考えています。ただ“デジタルの読み”は、長い文章や論理的思考が必要になる文章を読みこなすには向いていない可能性も指摘されています。今後、若い世代の間でデジタル教科書による学びが進んで経験が積まれていくことで、その差はなくなっていくかもしれません」
一方、ハイパーリンクなど、次々とさまざまな情報に容易にアクセスできるデジタルは情報過多に陥りやすいという。経験を積む中で、こうした課題を洗い出し、上手な使い方を同時に見いだしていくことが求められそうだ。
SNSに特化した言語生活が学びに与える悪影響
バトラー氏は、長時間にわたるインターネットの利用、とくにスマホを使ってのSNSが学びに与える影響についても気に留めている。
「SNSで用いられる言葉は、それ自体クリエーティブで楽しい面がありますが、学校教育の場で使われている学習言語とはタイプが違います。短いのが特徴で、単語、スタンプ、絵文字と、せいぜいフレーズくらいで成り立っていることがほとんどです。SNSに特化した言語生活を送っていると、例えば文と文をつなぐ接続詞のような語彙の習得が遅れ、文章をきちんと理解する能力や論理的思考を育む機会が損なわれる可能性があります」
一方、子どもたちのほうにも「SNSの利用を減らしたい」と思っても、なかなかやめられない事情があるようだ。バトラー氏が、19年に都内の中学校1・2年生を対象に行った調査では、SNSをやめてしまうと人間関係が損なわれたり、いじめに遭ったりするのではないかという懸念からやめられないと悩んでいる子が少なくなかったという。
逆に、こうした人と人がつながるためのツールであるSNSだからこそのメリットもある。他者と一緒になって何かの問題を解決していくときには、大きな力を発揮するのだ。
「コロナ禍で、ペンシルべニア大学もキャンパスを閉鎖し、授業はすべてオンラインで行っていました。グループワークの課題で、学生たちは米国、中国、エジプトなど離れた場所にいるのに、SNSを通じてディスカッションをどんどん進めていました。課題に出した論文の読みについても、『ここはこういう理解で合っているか』『ここをどう解釈すればいいのかわからない』とある学生が投稿すると、ほかの学生が非常によい示唆、考察をどんどん返していって、みんなで協力して読むということをやっているのです。これはデジタル世代の1つの新しい学びの形ですね。教える側としても、学生が何につまずいているのか、何を誤解しているのかが具体的に見えてくるので、非常に助かっています」
そんなバトラー氏が考える、デジタル世代に必要とされる力の1つは、変化に柔軟に対応できる新しい「コミュニケーション能力」だ。このコミュニケーション能力は、言語だけにとどまらず、音声や映像なども含んだマルチモダルな能力である。また、従来考えられていたような個人に内在する能力ではなく、他人と協議をしながら、それぞれが得意とする分野の知恵や経験を集結することを可能とする能力だという。
コミュニケーションの形が変化する中で求められる3つの能力
ここでキーポイントになるのが、言語を用いるコミュニケーション自体のあり方だ。
今後は対面に加え、ICTやAIを介したコミュニケーションが増大、変化していく。この変化に対応できるよう、今までの教育で重視していた語彙や文法の知識、敬語など場面に応じた適切な表現といった基本的言語知識を「使いこなしていく3つの能力」が必要だと指摘する。
1つ目は「自律的言語使用能力」だ。インターネット上にあふれる膨大な情報の中には、虚偽あるいは無益な情報がたくさん含まれている。そうした玉石混淆の情報から目的を持って必要な言語情報を取捨選択し、批判的な視点を持ちながら分析・理解する力が自律的言語使用能力である。
「言い換えれば、情報を取捨選択し、知識にしていく能力です。昨今、たまたま目にした情報を、真偽を確かめることなく信じてしまう子どもが増えています。OECDの『PISA2018』でも『すばらしいスマホを持ちながら、貧しい教育を受けている子どもは、深刻な危機に陥る』と警告しています」
2つ目が「社会的言語使用能力」だ。デジタル、非デジタル空間内で他者との有益なネットワークを築きながら、言語を通じてお互いの知識の量を拡大していく能力を指す。例えば、他者と協調しながらタスクを遂行する場合、多様性に対応できる柔軟な姿勢や、言語情報から相手の考え方や感情・情緒を理解し、共感を深めることのできる能力も、この社会的言語使用能力に含まれる。
3つ目は「創造的言語使用能力」だ。「創造的」とは既存の知識を再構成・再構築したり、新しいコンテクストの中で応用したりすることである。
「創造的言語使用能力は、人間が今後AIと共存していくうえで、非常に重要な部分です。言語だけではなく、映像や音などのマルチモダルなツールをすべて駆使して、同じ言語を共有しない他者やAIともコミュニケーションしながら、創造的な活動をしていく能力です」
子どもたちが、こうした言語能力を習得するには、今後どんなに技術が進んでも、教師の役割が非常に大切であることに変わりはないという。子どもたちの言語使用や、認知スタイル・嗜好を理解し、彼らがテクノロジーを選択的・方略的に使うための支援ができるよう、教師が適切なデジタルリテラシーを身に付けることも大切だ。
バトラー氏が専門とする言語教育の分野でも、もはやデジタルテクノロジーは欠かせなくなっている。ただ、つねに教師が最新のアプリやソフトに精通している必要はないと話す。
「先生がすべて完璧にお膳立てをしたものを子どもたちに与えるという考え方をしていると、とても負担になります。そもそもテクノロジーも社会も、どんどん変化していくので、それに対応した完璧なものを準備するのは無理に近いでしょう。ICTに関しては子どもたちのほうがエキスパートだという部分がたくさんあります。むしろ、その部分を上手に引き出していくような、子どもたちを学習の場面の中心に持っていく授業にすることが、先生たちの目指すところ、新しい学習のあり方ではないかと考えています」
例えば、予習とグループワークによる宿題を前提にして、授業では知識の理解の深まりと定着や、発展的な課題に時間をかけるような反転授業を取り入れてみるのも、これからの時代に即した学びの量と質を高める学習スタイルだ。
何より、長年の経験に基づく習慣を変えるのは難しい。だが、学習の場面で、今いちばん学びに対する柔軟性が求められているのは先生たちではないだろうか。ICTと教育がもはや切り離せない以上、先生たちがツールとしてのICTを使いながら、子どもたちと向き合っていくことが大切だ。
(注記のない写真はiStock)