ウクライナ戦争の遠因作ったメルケル「歴史のif」 ロシアの侵略行為への宥和政策が見くびらせた

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2014年のロシアの一連の侵略行動に関しては、次のような箇所が興味深い。

2月28日、クリミアで、標章なしの制服を着た武装集団による治安施設の占拠が開始された。3月1日、メルケルはプーチンに電話をして、緑の制服を着た集団はロシア兵であるとの見方を示したところ、プーチンは否定した。つまり、「すぐにばれた嘘を私についた事になる。そうしたことはそれまではなかった」と書いている。

かろうじて残っていたプーチンへの信頼が、大きく傷ついた様子をうかがうことができる。

メルケルは5月2日にアメリカに行き議会で状況を説明したが、上院議員の中からは、「ドイツとロシアの緊密な経済関係を見ると、これ以上の経済制裁にドイツはブレーキをかけるのではないか」との疑念の声が上がった。アメリカの中にあるドイツに対する根強い不信感を示す挿話だ。

2014年夏にはウクライナ軍が分離派に対し優勢に戦いを進めたが、ロシア軍が介入し、ウクライナ軍は逆に押し込まれた。メルケルはウクライナの軍事的勝利は幻想と考え、8月23日にキーウで行った講演では、「交渉や外交なしには解決はない」と話したが、これに対し、ウクライナ国会議長から「外交的解決は素晴らしい。しかし、ウクライナ軍だけがこの戦争を終えることができる」と反論された。

2014年9月5日、ウクライナ、ロシア、分離派がミンスクⅠ合意に調印したが、この合意はほとんど順守されないまま無効化した。

停戦合意にこぎつけた6日間の奔走

2015年に入り、ロシア軍と分離派の攻勢は強まり、ウクライナにとって戦況は厳しくなった。アメリカではウクライナへの武器支援を求める声が一層高まった。それが戦闘激化につながると考えたメルケルは1月28日、フランソワ・オランド仏大統領と連携し、ウクライナ大統領ペトロ・ポロシェンコ、プーチンへの電話を手始めに、精力的なシャトル外交を開始した。

まず2月5日、キーウでポロシェンコと会談した。ウクライナと合意することなしにロシアと交渉しないのが基本姿勢で、妥協できない「レッド・ライン」を詰めて、共同文書を作り上げた。これをたたき台にロシアとの交渉を進める手はずだった。

深夜にいったんベルリンに帰り、翌日昼過ぎ、モスクワに向かった。モスクワでロシアは共同文書をもとに交渉することを拒み、ロシア側の文書を交渉の土台とするように要求してきた。さらにウクライナ抜きで停戦宣言を出そうと提案してくるなど、したたかな交渉相手であることを描いている。

2月9日にはワシントンに飛んでバラク・オバマ米大統領と会談した。オバマはもし交渉がうまくいかなければ、ウクライナに対する防衛的武器の供与は必要という意見だった。

メルケルにはそれがウクライナ内の軍事的解決だけを望む勢力を強めないか、という懸念があった。他方でウクライナがロシアの暴力にさらされたままでいいのか、という考え方も理解できた。これはメルケル自身にとってもジレンマだったと書いている。

メルケルもオランドも、この合意が達成されなければ、事態は一層悪化するという確信があった。2月10日、ミンスクで、メルケル、オランド、ポロシェンコ、プーチンの4人による17時間に及ぶ交渉が行われ、停戦などを定めたミンスクⅡ合意の調印にこぎつけた。

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