「速く泳ぐため」ではなく、「命を守るため」の水泳学習へ

「学校教育の中でこれだけ広く水泳を取り入れているのは、世界でも日本だけ。そうした意味では、これまでは恵まれていたといえると思います」

東京海洋大学准教授の田村祐司氏はこう語る。しかしそれがはたして「実用的」だったかという点には、やや疑問の余地があると続ける。

「プール設置が増え始めた時期と1964年の東京五輪が重なったこともあり、学校の授業でも速く泳ぐことが重視されてきたように思います。競技水泳を否定するわけではありませんが、ゆっくりでもいいから、水の中で命を守る方法を知っている必要があると思うのです」

田村祐司(たむら・ゆうじ)
東京海洋大学・学術研究院 准教授
筑波大学大学院(体育研究科)修了。伊勢崎市立第二中学校教諭を経て1992年に旧・東京商船大学に着任し、2017年から現職。水難学会理事も務めており、溺水予防教育の普及に注力している
(写真:本人提供)

日本は海に囲まれており、流れの速い河川も多く、毎年夏になると痛ましい水難事故の報道が相次ぐ。田村氏が理事を務める水難学会は、会員の8~9割を消防士が占めるが、彼らに聞く話はとてもつらいものがあるという。

「通報を受けて現場に急行しても、ほとんどの場合、水難者はすでに水没しており、救助ではなく捜索活動になってしまうそうです。緊急通報から救助隊が現場に到着するまで、平均して約8分30秒かかるとされています。つまりその約10分を沈まずに浮いて待つことができれば、生還の確率は飛躍的に高まる。その方法を子どもたちに伝えるために、私たちは学校での講習を行っています」

「身を守るための指導は教育の原点」だと語る田村氏。今こそ、学校水泳の授業内容について考えるタイミングが来ているのかもしれない。その理由として、学校指導要領の改訂や、「学校プール」が縮小傾向にあり、質を重視する必要性に迫られていることなどが挙げられる。

「新しい学習指導要領が2020年に小学校で施行されましたが、今回の改訂で初めて、高学年の体育科の水泳運動の項目に、溺水予防を目的とした『安全確保につながる運動』が明示されました。その中で『背浮き』が示されたのです。しかしこの3年間はコロナ禍でプールの授業が中止されていたため、本格始動は今年が最初の年になったはず。まだどうすればいいかわからない先生が多いと思うので、指導方法を明文化したり具体的な映像を用意したりして伝えていきたいと思っています。また、プール授業の外部委託の流れは確実に広まっており、授業時間数の減少も懸念されています。水泳授業への取り組み自体が圧縮されている今こそ、原点に立ち返って優先順位を明確にし、命を守るための実技指導をすべきではないでしょうか」

「背浮き」「ライフジャケット」学習指導要領や予算にも動き

日本では、泳力に優れた子どもでも、背浮きなどの正しいやり方を知らない場合が少なくない。また、衣服を着たまま泳ぐ「着衣泳」を教えるかどうかも、各校の方針によってまちまちだ。だが、実際に起こる溺死事故の9割は着衣状態でのものだ。日本と同様に海洋国である英国や、海抜ゼロメートル地帯が広がるオランダなどの子どもの水泳学習は、着衣泳をはじめとしたサバイバルスイミングがメインに行われていると田村氏は言う。

「どんなふうにしたら浮いていられるか、どうしたら沈むか。子どもたちに実際に体験してもらうことが重要です。ポイントはいろいろあるのですが――例えば、運動靴の底には衝撃吸収材が使われているため、靴を履いていたほうがしっかりと足が浮きます。はだしでもゴム底の上履きでも、足は沈んでしまうのです。また、水面で仰向けになったら顎を上げて、腕は体と水平に頭の上に伸ばす。助けを求めて水面から腕を出すと、これも体は沈みます。水が怖い子どもにありがちなのが、腰が「くの字」に曲がってしまうこと。こうなると重心が下半身に寄ってしまい、体が沈んでしまいます。頭のほうに重心を持っていくことを心がけ、肺に空気がたまるよう、あまり声を出さない――など、一度体感すれば子どもたちもすぐにわかります」

田村氏は、こうした細かなコツを自身でつかんでもらうための講習を、教員向けにも子ども向けにも行っている。水難学会と共に約25年にわたって活動を続けているが、「水難事故死者をゼロにする」というゴールの実現にはまだ遠いと感じている。警察庁の統計によると、2022年の水難事故での死者および行方不明者数は727人に上った。

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全体では海での事故が多いが、中学生以下の年代では河川での事故が突出して多い
(図1、2ともに「令和4年における水難の概況(警察庁生活安全局生活安全企画課)」を基に東洋経済作成)

「ここ10年ほどの死者数は700人程度で推移しており、過去に比べると減少傾向が続いています。しかしこれはレジャーの多様化によって水辺に行く人が減ったことなどが要因で、水泳学習が功を奏したものだとは言いがたいと思います」

溺水予防として背浮きの指導に努めてきたが、それだけでは不十分なのではないか。そう感じた田村氏は近年、ライフジャケットを使った水泳指導にも力を注いでいる。

「水に近づくときにはライフジャケットを着用するのが当たり前、という認識が広まってほしいのです。とくに子どものライフジャケットは、サイズが合わせにくかったりジャケットだけ浮き上がってしまったりして脱げやすいもの。正しい着用法も、学校でしっかりレクチャーしています」

これまでは、学校の授業で使うライフジャケットは、「借りられるものをかき集めて用意していた」という。だが「着用が当たり前」という意識を子どもたちに浸透させるためには、もっと身近で気軽に使えるライフジャケットの確保など、環境整備が必要不可欠になる。そのために尽力してきたのが、田村氏の知人でもある「ライジャケサンタ」こと、香川県の元小学校教員・森重裕二氏らだ。彼らの草の根の普及活動やクラウドファンディングなどの努力が実り、21年、スポーツ庁の概算要求に水泳学習での「ライフジャケットの活用」による溺水予防教育プログラム開発が盛り込まれた。香川県教育委員会などがモデルケースとして「ライフジャケットレンタルステーション」を開設し、地域の学校にライフジャケットを貸し出すなどの施策を行っている。

子どもたちにも教員にも「恐怖」を感じさせないために

田村氏に、学校での水泳学習の手応えを聞いてみた。

「ライフジャケットを使った授業では、とにかく子どもが『楽しい』『面白い』と言ってくれます。水を怖がっていた子どもほど、水中で自由に動けることで自信がつくのでしょう。その自信が、万一のときにパニックになることを防いでくれると思います。背浮きの指導でも、一つひとつの動きの理由を説明しながら、ゲーム性を持たせるなど工夫しています。いずれにしても、恐怖ではなく楽しさを通じて学んでもらうことを重視しています」

単なる教科として考えれば、水泳を嫌いになっても「残念なこと」程度で済むかもしれない。だが命を守るための必須の学びと考えたとき、それが習得できていないことは「残念」では済まなくなる。水泳を嫌いにさせないために、田村氏の指導は、子どもにとって楽しいことが最優先なのだ。

では田村氏の講習を受けての教員のリアクションはどうか。この問いには「肯定的な先生が多いですが、ある根本的な不安を感じ取ることが多い」と答えた。

「学校プール存続の議論の1つでもあると思いますが、すべての先生が専門的な水泳の指導ができるわけではありませんよね。授業自体が命に関わることなので、『怖い』と感じている先生が多いのだなと思います」

こうした実態を鑑みても、田村氏は外部の力を借りた指導の導入を肯定的に捉えている。とくに授業数が減る中で、限られた水泳授業時間を有効に使うことの重要性を繰り返した。

「3年間のコロナ禍で、夏休みの学校プール開放も減少する流れにあり、夏休み前で水泳の授業を終わりにする学校もどんどん増えていっているようです。使用期間の短いプールの維持を諦め、その費用をスイミングスクールへの委託費用に回す学校は、とくに都市圏で増えています。しかし豪雨や河川の氾濫、津波などの水災害も増える今日、命を守るための水泳技能が必要になるのは、水辺での水難事故のときだけではありません。限られた時間を専門家による溺水予防教育に充てることは、そのまま子どもたちの命を守ることになるのではないでしょうか」

水の危険性を知る田村氏だが、旧東京商船大時代から大学生の遠泳指導にも当たっており、海や川の魅力も知っている。背浮きをしているときの心電図を測ると、自律神経は「休息型」の副交感神経が優位になっているそうだ。つまりこれは、人が背浮きでとてもリラックスした状態になっているということ――そんな研究もあるのだと、笑顔で語ってくれた。

「海や川は安全に楽しめれば、魚や海藻など、水圏の豊かな生態系を目にすることもでき、子どもたちにとってもすばらしい学びの場になります。『水辺は危険だから、海や川には近付かないように!』という後ろ向きの指導をするだけではなく、危険を理解し安全を確保して、ぜひ水辺に親しんでほしいとも思っています」

(文:鈴木絢子、注記のない写真:マハロ/PIXTA)