ボーク重子、公教育こそ「非認知能力育成を取り入れるべき」納得の理由とは? 人間の総合力が問われる時代、変わるべき教育

✎ 1 ✎ 2 ✎ 3 ✎ 4 ✎ 最新
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

受験では「興味はどのように生まれたか、その興味に基づいて主体的に行動したときにどんな困難があったか、どのように乗り越えたか、そこにはどんな学びがあったか、そこからどこに向かいたいか、それはなぜか」など、点数ではわからない部分が問われます。言い換えれば、それはその子どもの非認知能力が問われているといっても過言ではありません。

ですから非認知能力の育成なくしては、米国のトップの大学への合格は難しいでしょう。社会が求める人材として、人間力が求められている今、「何ができるか」という認知の部分だけではもう足りない。これからはその「何」を「誰」がどのように、何のために向かって使うのかという「誰」の部分が求められます。その部分が非認知能力という人間力なのです。

人間力があってこそ、この変化の激しい人生100年時代を、変化に淘汰されるのではなく、乗りこなしていくことができるのです。知識の量やアウトプットのスピードなど認知の部分では、人間は到底AIに勝つことはできません。言い換えればそれはAIで十分ということです。そのため、これからは人間が人間であるからこそ持つ能力を伸ばしていく必要がある。

だからこそ、グローバル社会では認知能力+非認知能力にシフトして結果を出しているのです。

グローバル社会VS日本、私立校VS公立校

では日本の現実はどうなのか?

2020年の学習指導要領の改定は画期的でした。何といっても、その中に人間力や表現力、ディスカッション力の育成が盛り込まれたからです。私は「これで一気に日本の教育が変わる!」と期待したのですが、コロナ禍もあり、教育改革は遅々として進んでいません。

また、いきなり非認知能力の育成を課せられた現場の先生たちは「認知と非認知の狭間」で大変な思いをしていることでしょう。子どもたちのために改革を進めたいという思いはあっても「いったい、何をどうしたらいいのか」というたくさんの声が私の元に届きます。

そんな中、私立の学校では非認知能力の育成に取り組むところが増えています。子どもと、その学校自身の競争力を高めるためにはいち早く社会の変化に対応することが重要だからです。しかし私立校だけが変わったのでは、非認知能力に関する教育格差が広がるだけです。大切なのは、経済的事情やテストの点数、偏差値などにかかわらず、誰もが平等に教育を受ける機会を提供する公立校が変わることだと思っています。

公立校は、私立校と比べて何といっても生徒の絶対数が違います。一人でも多くの子どもたちが高い非認知能力を身に付けていくことが、グローバル化、多様化、AI化が加速する今の社会で日本の競争力と協働力を支え、日本を前に進めることになるはずです。

そこで非認知能力育児のパイオニアとして、何かできることはないか?との思いで始めたのが、次回からスタートする、子どもの非認知能力の育成のために学校改革を進めている公立校を中心とした学校の校長先生を訪問して、直接話を聞く「話題の学校現場にボーク重子が行く!」です。

できない理由はない、「やるか、やらないか」

校長先生たちの話を聞いていて毎回思うのは「できない理由はない」ということです。

私たちはそもそも変化が嫌いな動物です。でも変化は世の常。変化を乗りこなせなければ淘汰されます。改革は「できるか、できないか」ではなく「やるか、やらないか」なのだと校長先生たちのお話を伺っていて痛感します。「できない理由」を探す代わりに、「どうすればできるようになるか」と問いかけることで光が見えてくる。

もうひとつ改革を進めている校長先生たちには共通する姿勢があります。それは改革に必要なのは「勇気」ではない、ということなのです。

ではいったい何が必要なのか?

それは「モチベーション」です。いったい何のために改革するのか? それは「子どもたちの幸せ」のためです。その思いが改革を前に進めます。勇気なんて要らない。そもそもどうして先生になったのか? そんな初心が世界最強のモチベーションとなって、この変化の激しい社会を子どもたちが自分らしく幸せに生きる基礎づくりのための改革へと前に進めます。

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事