「礼節」さえわきまえれば嫌なやつとも一緒にはいられる 国際基督教大学教授 森本あんり氏に聞く

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もりもと・あんり 1956年生まれ。国際基督教大学人文科学科卒業、東京神学大学大学院を経て、プリンストン神学大学院博士課程修了。専攻は神学・宗教学。『アメリカ的理念の身体』『反知性主義』『宗教国家アメリカのふしぎな論理』『異端の時代』など著書多数。(撮影:梅谷秀司)
不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学 (新潮選書)
不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学 (森本あんり 著/新潮選書/1600円+税/304ページ)書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします。
17世紀、植民地時代の米国で、政治権力が法律で礼拝を強いる教会制度に異議を唱え、また、「英国王に米国の土地を植民者に与える権利はない」とし、先住民から土地を譲り受けてロードアイランドを建設したロジャー・ウィリアムズ。互いの内心の自由の尊重から生まれる寛容は容易に不寛容へ転じることはない。

政教分離、先住民尊重を主張 17世紀の“変人”に学ぶ共存

──寛容には差別的な面がある。

近代では、あなたと私は違うけれど等しい存在と考えるべきとされています。例えば、ボルテールの、君の意見には反対だが、それを主張する権利は命を懸けて守る、みたいな。本当かよってね(笑)。日本は明治時代に西洋の啓蒙思想が入ってきたので、すんなり受容していますが、そこには啓蒙主義以前の中世の知恵が反映されていなくて、ある種のきれい事です。

キリスト教支配の中世において寛容とは悪に対する態度。「寛容にする」は初めから相手を見下していて、「寛容にされる」は侮辱に近い。本来悪は罰せられるべきだが、罰することで大きな弊害が生じるなら罰さない。それが寛容。自分たちとは異質なものを受け入れる手段で、優先されるのは原理よりも実利です。主たる対象は異教徒、高利貸し、売春婦でした。

──異端には厳しいですね。

キリスト教の外にいるユダヤ人、ムスリムは周縁で受容する。今後キリスト教に帰依する可能性もある。が、異端は内側にいたのに違う主張をするので排除の論理が働きます。生かしておけない。それでユグノー戦争のような宗教戦争になるわけですが、弾圧の弊害が大きすぎるようになるとやめる。これも便法、怜悧の計算です。

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