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想定通りに進まなかった波瀾万丈の半生記 ソニー シニアアドバイザー 平井一夫

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「人事方針もなければ、人事・各種事業計画などの決裁申請のルール、マニュアルすら確立されていない。トイレの立ち話で人事や新事業計画が決まるありさま。組織の形を作ることが急務だった」

日米を行き来しながら二重生活を送る丸山とともにSCEAを再構築することが、いつしか平井の仕事になっていった。

ゲームをつくるのは“アーティスト”という特殊な人種。一般的な企業統治の感覚では信頼関係を築くことが難しかった。が、平井は音楽事業を通し、日米の文化ギャップを埋めながらアーティストの実力を引き出すことに長けていた。いわば「問題発見能力」と「調整能力」に秀でていた。

「CBS・ソニーでたたき込まれたやり方が、後のキャリアで生きた」と平井が振り返るように、音楽事業の中で日常的に行ってきた仕事の流儀が、SCEAに規律をもたらしていった。

文化が異なる米国スタッフたちとの意思疎通に四苦八苦していた丸山だが、ある日、平井の特異な才能に気づいた。自分が現地スタッフの質問にほんの3秒ほどの短い言葉で返答すると、平井はその後、15分もかけて早口の英語で細かに丸山の意図を話し続け、互いに誤解を生まないよう丁寧に対話をしていた。

「相手の気持ちや立場を考え、自分の中で伝えるべきことを咀嚼し、そして自分自身の言葉で本質を伝えようと、心を砕いていた。表面的な通訳ではなかった」と丸山は言う。

2人で立て直しを図ったSCEA。やるべきことは山積していたが、彼ならば安心して米国の事業拠点を任せられる。96年6月、丸山は「すでにソニー上層部には話を通した。実質トップになってくれ」と言い残して日本へ帰っていった。

平井はSCEAの事業基盤をつくり上げ、とうとう98年には米法人としての過去最高益をたたき出す。「もう俺は日本には帰らない。SCEAの事業にコミットし、ここに骨をうずめる」と腹をくくったことも奏功。99年6月にプレジデント&COOに就任する頃には、完全に“平井の組織”になっていた。ただ平井には反省がある。「SCEAのトップは長すぎたかもしれない。最後はオートパイロットになっていた」。トップは必要以上に長く務めてはいけないと心に刻んだ。

日本へ単身赴任。ひとごとだった社長レース

そんな平井が米国に家族を残して日本に単身赴任することになったのは2006年のこと。この年、プレイステーションの生みの親である久夛良木健がSCEI社長を退くと、平井が社長に就任した。米国に骨をうずめる覚悟で現地に溶け込んだ平井のライフプランは、またもや崩れた。09年にはソニー本社エグゼクティブバイスプレジデントも兼務。さらに11年4月からは代表執行役副社長になり、エレキ事業全体の責任者へと駆け上がった。

世間はいつしか、平井のことを「ソニー次期社長の本命」と見なすようになっていた。

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