想定通りに進まなかった波瀾万丈の半生記 ソニー シニアアドバイザー 平井一夫
平井は自らハンドルを握って車を操り、好きな光景を写真に収める。時に大好きなサックスを演奏し、人生を明るく前向きに楽しむことが夢だった。
これからは社会への恩返しをしながら、人生を楽しみたい。平井の人生は、初めて自らが望む方向へと転がり始めている。
国内勤務を熱望。遠方に新居を構えて新幹線で通勤

平井の父親は国際畑で活躍する銀行員。少年時代は転校の連続だった。まずは小学校入学と同時にニューヨークへ。小学5年生になるといったん日本に戻ったが、中学になると今度はカナダに渡った。中学3年生のときに日本に戻るが、そこからはアメリカンスクール通い。高校2年生になるとシリコンバレーへ渡り、およそ1年で帰国。高校3年生で再びアメリカンスクールに通うようになった。
慌ただしく日本と海外で青春を過ごした平井は、日本への想いを募らせた。海外生活で獲得した英語力を生かそうと国際基督教大学に進む。
1984年、就職先にCBS・ソニーを選んだのも、日本に根を下ろして仕事がしたかったからだという。海外を転々として暮らすのはもうごめんだ。日本にしか商圏がないCBS・ソニーであれば、大好きな洋楽と触れ合いながらも、海外に赴任する可能性もないだろうと考えたという。
ところが88年に想定外のことが起きる。ソニーが米CBSレコードを買収し、CBS・ソニーは全世界へと商圏を広げたのだ。嫌な予感を持ちつつも89年に結婚。地価高騰で首都圏に戸建てを持つことはできず、90年に宇都宮に一戸建てを購入。会社が始めたばかりの新幹線定期券の一部補助制度を活用し、新幹線通勤を始めた。「紛失したら大変なので1カ月単位で定期を購入していた」。週末は趣味を楽しみつつ、平日は定時退社。平井が「理想的だった」と懐古する生活を送っていた。
遠距離通勤も板についた94年、理想的ライフスタイルは海外赴任によって終わりを告げる。
バブル崩壊で価値の下がった自宅は売却もままならない。仕方なく貸家とした(今現在もこの家は貸し続けている)。家族そろってニューヨークへ居を移すことにした。
ここから平井の人生は、大きく変わった。
94年12月にソニー・コンピュータエンタテインメント(SCEI)が国内で発売した初代プレイステーションを米国市場へ投入(95年9月)するため、SCEI副社長の丸山茂雄は英語が得意で調整能力が高い平井に事業立ち上げの手伝いを命じた。ソニー・ミュージック出身の丸山は、平井のことをよく知っていた。
94年5月に設立されていたソニー・コンピュータエンタテインメント・アメリカ(SCEA)はSCEI本社の制御が利かず、即座に“建て直し”が急務になった。まだ牧歌的時代のゲームクリエーターはカウボーイ気質。一匹狼が多く、ほとんどの社員が組織に縛られることを望まなかった。
自主的といえば聞こえはいいが、伸び盛りで人材も多く集まってくる当時のSCEAには社内ルールも業務執行の決まりごともなかった。
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