『批判する/批判されるジャーナリズム』を書いた大石裕氏に聞く 市民と「共犯関係」にあるジャーナリズム

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メディア政治がポピュリズムの流れを加速する。ジャーナリズムはその渦から脱せるか。

ジャーナリズム論には“冷めた”分析が必要

批判する/批判されるジャーナリズム
批判する/批判されるジャーナリズム(慶應義塾大学出版会/224ページ)書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします。

──「冷めた」ジャーナリズム論を展開していますね。

ジャーナリズム論というと、記者クラブ批判や、メディアリテラシーを高めてもっと権力を監視すべし、といったある種の常套句が並びがちだ。基本的には、コミュニケーションの一つの形態としてマスコミュニケーションがあり、その中の送り手が新聞や放送を中心としたジャーナリズム。なぜ問題を抱えながら、同じ形態で行われ続けているのか。現場でのニュースの作り方、作られ方を考えて分析する研究態度に欠けていた。そこを「冷めた」ジャーナリズム論として分析してみた。特に、こういうあり方はおかしいという「熱い」ジャーナリズム論と違って、事例に基づいた仕組みやシステムの研究を中心に置いている。

──朝日新聞の誤報問題でそのテーマ性が強まった?

吉田調書をめぐる誤報という問題がまずいことはわかり切っている。ただ、マスコミはつねに誤報と隣り合わせで、これをもってもっぱら朝日新聞的な価値観のような形で批判されたのは、「冷めた」ジャーナリズム的な意識がないからではないか、と問いかけたい。誤報への批判が積極的に行われることによって、「原発事故とその対応」というジャーナリズムが本来追及すべき問題の全体像を描く作業が停滞してしまった。

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