動きは速かった。83年10月、政府は国有地等有効活用推進本部を設置。本部長には中曽根自らが就いた。翌84年には都内の12カ所を払い下げ候補地にピックアップ。85年5月には、旧司法研修所跡地を一般競争入札で処分することを決定し、同年7月9日に所管する大蔵省が正式に公告を行った。こうして紀尾井町の土地は「都心最後の一等地」として不動産業界全体を巻き込んだ争奪戦となる。

85年7月下旬、読売新聞は「価格規制 動きなし」と報じた。都心の一等地の売却であるにもかかわらず価格上限は設けないという政府方針を牽制したのである。地価高騰が進む中、国有地の高値売却がさらなる値上がりを招くという懸念が社会に広がっていた。
紀尾井町の土地を国はどこまで高く売るのか、不動産業界はどこまで値を競り上げるのか、世間の関心は高まった。ある者が坪1500万円と見積もると、その翌日には坪2000万円はするだろうと、噂は青天井に膨らんでいた。
当時の大京社長・横山修二は、地価高騰を懸念し、一般競争入札に強く反対していた。確かに、建築プランと価格を併せて審査するなど、一般競争入札以外の方法もあったはずだ。だが、中曽根民活の目的が財政再建にある以上、高値での売却が至上命令でもあった。
大京は不本意ながらも入札への参加を決断した。そして85年8月8日、運命の入札日を迎えた。
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