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JX金属「悲願の独立IPO」で突き進む脱祖業の道 想定される上場時の時価総額は8000億円超

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株式上場を機に資源・製錬の既存事業から半導体材料などに事業の軸足を移すJX金属。その過去、現在、未来を探った。

日立鉱山の後
1981年の閉山までの75年間使われた日立鉱山の竪坑櫓(左)。煙害を対策のため久原房之助が主体となって1914年に造った大煙突は、1993年におよそ3分の1を残して倒壊したが今なお残る(右下)。日鉱記念館の中(右上)には鉱山で使用されたさまざまな機材が展示されている(記者撮影)

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3月19日に株式上場する予定のJX金属。資源・製錬を祖業とする非鉄大手の名門は上場を機にどう変わろうとしているのかを取材した。
【「JX金属 上場後の針路」配信スケジュール】
2月19日(水) JX金属「オンリーワン先端素材」を生む磯原工場
2月20日(木) JX金属「先端素材で営業利益2000億円」計画の核心

茨城県日立市の宮田川上流の山間に、モダンな2階建ての建物がひっそりとたたずむ。日鉱記念館だ。ここはJX金属創業の地。同社の歴史を伝える資料や模擬坑道展示のほか、「日立鉱山」の第一竪坑櫓(たてこうやぐら)が残されている。

JX金属の歴史は1905年、久原財閥の久原房之介が日立鉱山(赤沢銅山から改称)を開業したことにさかのぼる。「最盛期に鉱山では8000人超が働き、山間には街が形成され、とくにスポーツが盛んだった。児童2000人が通う小学校もあった」(日鉱記念館の篠原順一副館長)。

久原は掘削の機械化を進め製錬事業も始めた。他鉱山から鉱石を買い入れる買鉱製錬も行った。「買鉱製錬は当時は画期的なことだった。各地で採れた鉱石を同時に製錬するため、高い技術が求められた」と篠原副館長。JX金属の技術重視の企業風土はここに淵源がある。

日立鉱山を母体に1912年、大阪で久原鉱業が設立される。全国で銅山開発を進め、1916年には西日本の拠点として佐賀関(大分県)にも製錬所を置いた。第1次世界大戦による好景気を背景に、「穴を掘る技術」を生かして石油や石炭資源の開発にも手を広げていく。

「日産コンツェルン」の源流に

だが、大戦後の世界恐慌のあおりを受け事業は傾く。久原は義兄の鮎川義介に経営をゆだね、1928年に久原鉱業は日本産業に改組された。持ち株会社として上場した日本産業の下、日立製作所、日産自動車、日本水産といった企業が育っていき「日産コンツェルン」を形成していく。

祖業の鉱業部門は日本産業傘下で「日本鉱業」となった。戦前から進めていた原油生産、石油精製を拡大し、戦後の1965年にはアジア石油、東亜石油と合弁で共同石油を設立。金属事業と石油事業が会社の両輪となる。

日立鉱山は鉱石を掘りつくして1981年に閉山となるが、1992年に金属部門が独立して「日鉱金属」に、石油部門は共同石油と合併して日鉱共石(翌年ジャパンエナジーに改称)となった。

2002年に両社の持ち株会社の新日鉱ホールディングス(HD)が設立され、金属と石油が再び同じ企業体の中で共存することになる。

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