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建築家、東京R不動産ディレクター 馬場正尊 リノベブームの仕掛け人、公共空間の再生に挑む

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古い建物の価値を再発見した異才が、今は地方の公共空間を変えようとしている。視覚のハンデを抱えながら、その発信力は衰えない。

R不動産のグループ会社である「スピーク」の都内のオフィス前で。飾り気のない、まったくの自然体が持ち味だ(撮影 尾形文繁)

東京の都心の裏通りにある、いかにも昭和な古いビル。壁や床はボロボロで、トイレは和式。でも、窓は大きく開放感があって、よく見れば手すりやスイッチも凝ったデザインだ。

それらを「レトロな味わい」と表現して「改装次第で大きく化けそう」「ビビッときたら下見を」などと軽妙な文章で読む者を誘う。ほかにも、やや狭いけれど川べりの絶景が売りのワンルーム、吹き抜けにすれば現代風のオフィスに生まれ変わりそうな元倉庫、元映画館、敷地が数百坪の古民家……。こうした、一癖も二癖もある不動産物件を紹介するウェブサイト。馬場正尊(ばば・まさたか・51)が中心となって2003年に立ち上げた「東京R不動産」だ。

「それまで『ちょっと古くて味わいがある』なんて物件は、不動産としての価値がなかった。不動産屋的にはただのボロだけれど、僕らが見ると魅力的。そんな物件を探してブログ風にアップしたのが始まり」

独特のせわしない口調で馬場は振り返る。

建築設計をしていた馬場は、同じ建築分野出身で不動産デベロッパーにいた吉里裕也と、東京R不動産を発案。繊維問屋街だった日本橋の東エリアを中心に空きビルや空き倉庫を探し、大家を口説いて回った。

古くてもいい。雰囲気はいいが駅から遠い。サイトで伝えるのは馬場たちが感じたとおりの「良しあし」だ。だから、いわゆる広告型のサイトにはしていない。最初は1円にもならなかった。やがてその面白さが口コミで広がり、扱う物件もサイトの閲覧数も増加。吉里と同じデベロッパーに勤めていた林厚見が04年から独立して合流し、本格的な不動産仲介業のビジネスとして回り出した。

東京以外では06年の「金沢R不動産」を皮切りに福岡、山形、鹿児島など全国に展開。今や年間契約件数は500件以上、DIY素材のオンラインショップなど関連会社を含めたグループの売上高は15億円近くに上る。

「R不動産」は会社名でもあるが、実際の運営は馬場が代表を務める設計事務所「オープン・エー」と、吉里、林が共同代表の不動産仲介会社「スピーク」が担う。

盟友の吉里裕也(右)、林厚見(左)との打ち合わせ。「やっぱり3人でなきゃ進まないことは多い」(馬場)(撮影 尾形文繁)

吉里によれば、「R不動産は馬場さんのやりたいこと、いわば妄想を実現するための組織」。スピークとは親戚のような関係で、「自分たちは商業不動産業として食うためにやる部分が大きいけれど、そこに馬場さんが社会的テーマをリンクさせたのがR不動産」ということになる。

もう一方の林の表現を借りれば、「馬場さんは時に設計、時に物書き、さらに不動産や流通もやるなど、柔軟さがハンパない。(さらには)楽しく明るく、キュートに自らを編集する」。そんな馬場を「みんながなんとなくサポートしてしまう」そうだ。

そんな両社のグループでは総勢50人以上の従業員が働き、たくさんのフリーランスやクリエーターとつながる。R不動産をはじめ何十ものプロジェクトが同時に動いており、そのうち誰かが新しいサイトを立ち上げ、やがて起業しアメーバのように増殖する。そのネットワークの中心に、柔らかく変化し続ける馬場がいる。

建築を軸に異能ぶりを発揮。サブカル雑誌も

生まれは佐賀県伊万里市。父は農家出身の銀行員、母方の実家は商店街のたばこ屋。祖母が店番をする昔ながらの開けっぴろげな店舗兼住宅と、人情味あふれる商店街が、馬場の幼少期の原風景だ。

父の転勤に伴い、伊万里や久留米、佐世保、福岡に住み、中学時から佐賀市に住んだ。進学したのは県内一の進学校、県立佐賀西高校。佐賀城のお堀の内側にあり、県庁や佐賀城公園、県立図書館などに囲まれている。

そのうちまた父の転勤があるだろうと、馬場は高校近くの下宿に住むことが許された。一人暮らしを謳歌し、部活のサッカーに没頭する日々を送った。

それまで九州を転々としてきた経験から、土地と土地とを結ぶ橋を見るのが好きになった。土木に興味を持ち、早稲田大学理工学部土木学科に入学。ところが1年時に共通科目である建築のほうが「やってることが面白そう」と、試験を受けて2年生から建築学科に移る。1年遅れのコンプレックスを感じながら必死に建築を学んだ。周りがバリバリの建築家志向の中、馬場は設計課題で今につながる既存の住宅を生かすアイデアを披露したり、大学院では街づくりや同人誌の編集にのめり込んだりした。

この頃、付き合っていた女性が予期せぬ妊娠をし、学生結婚。妻子を抱えつつ実家からは勘当状態となり、「極貧生活」(本人談)に陥る。設計事務所のアルバイトなどで食いつなぐが、「自分は建築では食えない」と痛感。修士課程修了後は、ゼネコンや設計事務所に就職する同級生を横目に、広告代理店の博報堂に入った。

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