経済学という学問の「奥の院」のメンバーであり、ノーベル経済学賞に最も近かった日本人と称される故・宇沢弘文。主流派経済学の発展に寄与しながら、後に徹底批判へと転じた背景にあったものは何だったのか。86年の生涯を640ページ余で描く。
──執筆のきっかけは?
竹中平蔵の評伝『市場と権力』の取材の一環でお目にかかりました。竹中に関する質問は早々に切り上げ、経済学者および経済学への疑問を次々にぶつけました。これまで出会った経済学者とは全然違う、深い問題意識を持つ碩学であるとわかったからです。
評伝を書く許可を得た後、宇沢の自宅で一日中話を聞く機会が何度もありました。私の経済学の知識が乏しかったため、執筆に時間がかかってしまいましたが。
──宇沢は米スタンフォード大学、シカゴ大学を拠点に活躍し、35歳でシカゴ大教授になりました。
米国では若手で一、二を争う理論家と目されていました。宇沢と親しかったアロー、ソロー、アカロフ、スティグリッツに取材したのですが、ノーベル経済学賞受賞者の彼らがそろって、「ヒロ(宇沢のこと)は当然受賞すべきだった」と証言したのが印象的でした。
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