スズキ「91歳のカリスマ」引退が示す大転換期 自動車業界のレジェンドが第一線から退く
「ばいばい。ばいばい」
約43年にわたってスズキのトップに君臨した鈴木修会長(91)。浜松の中小企業をグローバルな自動車メーカーに育て上げたカリスマ経営者は、退任会見の最後に小さく手を振ってそう口にした。
修会長がスズキの社長に就任したのは1978年で、48歳だった。当時、トヨタ自動車工業の社長は豊田英二氏、日産自動車の社長は石原俊氏、ホンダは2代目社長の河島喜好氏。それから他社ではトップが何人も代わる中、会長、社長兼会長、会長と肩書は違えど、スズキを牽引してきたのは紛れもなく修会長だった。
伝説に彩られた経営者人生
社長就任の翌年に発売した軽自動車「アルト」では、「エンジンを取ったらどうだ」とまで言う修氏の檄で徹底的にコストを削った結果、既存の軽の2割以上安い47万円で売り出し、大ヒットした。販売店の経営者の家族構成まで把握し、ディーラー大会や企業訪問時に「オヤジは元気か」「息子も一人前になったな」などと声をかける。修理工場を営む販売店との強固な関係を築き上げ、33年連続で軽自動車トップの座を守った。
スズキにとって日本を上回る市場に育ったインドへ進出の際には、修氏の「勘ピュータ」が冴え渡った。合弁相手を探しに来日したインドの国営企業の調査団に対し、他社は中堅クラスが応対した中、当時、社長就任4年目の修氏が自らプレゼンを行い、合弁相手の座をつかみ取った。
自他共に認めるワンマンであるがゆえ、修氏の引退はスズキの最大の経営リスクとされてきた。かつて「ワンマン時代の後は集団指導というのが歴史の必然だよ」と本人も話していたが、「生涯現役」とも公言していた。ただ、超長期政権となったのはそれなりの理由もある。
22年務めた社長から会長に就いたのは70歳になった2000年のこと。だが、社長に就いた戸田昌男氏は後に病に倒れ、次の津田紘社長も体調を崩して辞任。その間には将来の社長と嘱望していた娘婿の通産省(現経済産業省)出身の小野浩孝専務も急逝してしまった。2008年のリーマンショック後は、修氏が緊急登板で社長と会長を兼務することになる。
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