高校野球・甲子園の影響力から考える、「勝利至上主義の部活動」の行く末 宣伝や愛校心に役立ててきた学校の身勝手
筆者のサロンにいるようなタイプの指導者にとって授業と野球指導の両立が苦になることはない。しかし、どの教員もが同じ考え方ではないのだ。
スポーツ指導に興味のない一教員からしてみれば、部活動は苦痛でしかないだろう。学校には部活動が当たり前のように存在していて、顧問をやらなければいけない空気から逃げることはできない。
そうしたことが社会問題化して、今や部活動は「働き方」の問題として提示されるようになったというわけであろう。
だから、いっそのこと、部活動を潰してしまえ。甲子園がなくなってしまえば解決するという考えを持つ人々を生んでしまっているわけだが、そもそもスポーツが学校に依存したわけではない。むしろ、スポーツを教育の中に取り込み、高校野球を学校宣伝に利用し、あるいは、部活動を盛んにして生徒たちの仲間意識や愛校心に役立ててきたのは学校のほうではないのか。
スポーツを教育に取り入れるために、施設を学内に造り、スポーツをする機会は学校でしか成立しない状況をつくった。スポーツはやりたい人が好きなときにやる楽しむためのもの。そうではなくしたのは教育の枠組みに組み込んだからであろう。
もちろん、近年は、スポーツクラブが立ち上げられている。しかし、クラブを運営する人々にとって施設不足の問題は大きな課題であり、それはスポーツは学校でやるものという環境をつくったからにほかならない。
そうした歴史を抜きにして日本の部活動は語ることはできない。部活動のせいで教員に過重労働が生まれるから、スポーツを学校から切り離すのではなく、ひとまずは施設を開放することから始め、地域がスポーツに触れ合える環境をつくるなどの施策を考えるべきだろう。
高校野球はさまざまに変わらなければいけない。野球界全体として多くの課題を抱えているのは事実だ。ただ、それらは学校教育という枠組みにあったから起きた問題もあるが、しかし、そのことと教員の労働時間は分けて考えなければならない。
スポーツを学校教育から切り離す。自由なものにするというビジョンについては歓迎する。しかし、子どもたちがこれからも自由にスポーツができる環境をつくることをしないで、ただ、教員の過労があるからという理由だけで学校教育からスポーツを切り離すというのは早計すぎる。
そもそも部活動がつくってきた、それぞれの学校の風土や生徒の帰属意識。それらをゼロにしてうまくいくのだろうか。
※ https://digital.asahi.com/articles/ASR6M5TGQR6MPTQP009.html
(注記のない写真:dramaticphotographer / PIXTA)
執筆:スポーツジャーナリスト 氏原英明
東洋経済education × ICT編集部
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら