西武線は日本のアニメを育てた「影の功労者」だ アニメ界出身の鉄道写真家が語る「青春時代」
かつて西武池袋線富士見台駅の近くに手塚治虫の主宰する「虫プロダクション」があったころ、漫画家のやなせたかしが駅前に降り立ち虫プロへの道順を商店の主人に尋ねたところ、「ああ、そのへんを歩いている長髪で薄汚い若者の後をついてゆけば虫プロに行けますよ」と答えたという話がある。
昭和40年代、西武鉄道沿線にはアニメ従事者やアニメーターの姿が各駅で見られた。では、なぜ西武線沿線にはアニメ関係者が多かったのだろうか? その時代、筆者はアニメーションの仕事に従事していたので、当時の経験を基に話を進めてみよう。
西武線沿線に芽生えた日本のアニメ
西武鉄道沿線に初めて大手映画会社によるアニメーションスタジオが誕生したのは1956年。大泉の東映撮影所南側に隣接するダイコン畑にスタジオが完成した。政岡憲三、山本善次郎らにより設立された日本動画株式会社(日動)は東映に買収されて東映動画となり、この新社屋で山本善次郎を所長に迎え、日本の本格的アニメーション作りが始まった。
創成期には日動時代からの森康二(やすじ)、大工原章、熊川正雄らのアニメーターのほかに演出家の薮下泰司らが参入、新たに募集した第一期生に大塚康生、楠部大吉郎、坂本雄作、喜多真佐武、奥山玲子、中村和子ら、2019年のNHK連続テレビ小説「なつぞら」登場人物のモデルとなった面々が新規採用された。そして日本初の長編カラーアニメーション「白蛇伝」が誕生したのだ。
1958年からは手塚治虫が「西遊記」の原作者として参加している。この時のアニメーションへの情熱が手塚治虫を動かし、池袋線の富士見台駅近くに「虫プロダクション」を設立。1962年11月には虫プロ第1作である38分の短編アニメ「ある街角の物語」と、「鉄腕アトム」第1話が完成、テレビ放送を開始した。
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