「Ruby City MATSUEプロジェクト」の発端は市の危機感

曽田周平(そた・しゅうへい)
松江市 産業経済部 まつえ産業支援センター

島根県の県庁所在地・松江市。約20万人の人口規模は山陰地方でもトップクラスを誇る。その松江市に激震が走ったのは、2000年代前半のことだった。松江市 産業経済部 まつえ産業支援センターの曽田周平氏は、その理由をこう語った。

「2005(平成17)年の国勢調査で松江市の人口が初めて減ったのです。人口流出を防ぐため、新たな産業を生み出して若者の働く場をつくることは、差し迫った課題でした。松江市は松江城や宍道湖などの観光資源に恵まれており、観光が産業の柱でした。当時、市の商工課では、こうした観光に加えて、松江がオンリーワンとなって若者の働く場となる産業をつくろうと考えたのです」

しかし、松江市は予算規模が小さい地方都市であるうえに、山々や湖に囲まれて広い土地を確保することができないため、大規模工場の誘致は難しい。そんな時、ある職員が雑誌記事に目を留めた。それは世界的なプログラミング言語「Ruby(ルビー)」開発者のまつもとゆきひろ氏が松江市在住だと伝えるものだった。

プログラミング言語「Ruby」開発者のまつもとゆきひろ氏

「RubyなどのOSSを活用したIT産業振興なら工場をつくる必要もなく、東京と離れた場所でも世界の第一線で働くことができます。前例のない挑戦ではありましたが、早速まつもとさんに協力をお願いし、RubyとOSSを軸にした『Ruby City MATSUEプロジェクト』が始まったのです」

プロジェクトは、06年7月にJR松江駅前に松江オープンソースラボが設置されたことで幕を開けた。エンジニアが集い、一緒に開発できる交流拠点で、松江市はIT産業をさらに盛り上げるために企業誘致も進めた。

JR松江駅前にある松江オープンソースラボ

その結果、これまで40超の企業誘致に成功。総務省が昨年10月に公表した「地方公共団体が誘致したサテライトオフィス開設状況」調査では松江市が4位となっている。

しかし、誘致した企業に定着してもらうには、地元からエンジニアを供給し続ける必要がある。そこで松江市では産学官で人材育成に取り組んでいる。まつもと氏やRuby開発に関わるエンジニアなどを講師とする「Rubyプログラミング講座」を、島根大学では07年から、松江工業高等専門学校では08年から実施している。

「市が主催するハッカソンでは、高専生や大学生がエンジニアと一緒に開発を体験しています。エンジニアの方も地元のIT企業と誘致した IT企業、松江市近隣のIT企業から派遣された方などさまざま。そのため、学生さんは『松江でこういう働き方ができるんだ』と実感できますし、企業さんにとっては採用活動の一環にもなっています。さらに、各企業が高校・専門学校・高専・大学と直接つながって開発や授業などを行う例もあります」

企業と学校の連携が進む松江市内では、IT企業の雇用人数も右肩上がりで増えているという。

ハードルを下げたビジュアルプログラミング「Smalruby」

2012年からは中学校の技術・家庭科で「プログラムによる計測・制御」が必修化されることになった。必修化に備えて、市とともにプログラミング教育にいち早く取り組んだのが、当時、松江市立第一中学校で技術・家庭科を教えていた兼折泰彰氏だ。兼折氏は大学時代、プログラミングを使って研究を行った経験を持つ。

「私たちは普段、何も考えずに炊飯器やエアコンなどを使っていますが、そこにはソフトウェアやセンサー、それらを動かす技術などが詰まっています。これまで精密機器に強かった日本だからこそ、これらは知っておくべきリテラシーとなるはず。私がプログラミング教育に取り組むようになったのは、プログラマーを育てたいというより、仕組みを理解して賢い日本人になってほしいという思いがあったのです」

英語を習い始めたばかりの中学生が、ソースコードを書くのはハードルが高いため、高尾宏治氏が開発した「Smalruby」を授業で取り入れることにした

しかし、英語を習い始めたばかりの中学生にとっては、ソースコードを書くプログラミング教育はハードルが高かった。そこで、松江市内のIT企業のエンジニアで「中学生Ruby教室」の講師を務める高尾宏治氏が開発した「Smalruby(スモウルビー)」を授業で取り入れることにしたという。Smalruby は、Rubyをブロックなどで視覚的に構築できるビジュアルプログラミング言語だ。

「当時の学習指導要領ではプログラミングで模型の車を動かすという実践が多く行われていました。そこで、高尾さんにお願いしてSmalrubyにハードとソフトをつなげる機能を加えてもらったのです。Smalrubyはハードルが低く、直感でブロックを組み合わせることでプログラムを組むことができますし、それをソースコードに変換することもできます。Smalrubyを使ってみると、生徒たちは『車をこう動かしたい』『もっとプログラムをわかりやすくしたい』という問題解決やアルゴリズムに集中できるようになりました」

Smalruby は、16年からは松江市内のすべての中学校で授業に取り入れられている

現場ならではの視点とエンジニアの技術によって、学校教育で導入しやすい形になったSmalruby。16年からは松江市内のすべての中学校で授業に取り入れられている。では、実際のカリキュラムはどうなっているのだろうか。

「技術科としての問題解決の難易度の高さを考慮して、プログラミングは2年生以降とし、2年生で14〜15時間、3年生で17.5時間をプログラミングに充てています。近年は小学校でもプログラミング教育が行われていますし、Smalrubyは幼稚園でもできるようになるでしょう。そうなれば、中学校のプログラミング教育もレベルアップを求められるようになるはず」

そう語る兼折氏は、プログラミングを通じて、生徒に学んでほしいことがあるという。

「生徒たちは、成長するにつれていろいろな壁や問題にぶつかるでしょう。そんな時、自分で乗り越えられるようになってほしいのです。そのためにも、プログラミングの授業を通じて自分で考え、解決する力を身に付けてもらえたらと思います」

島根県・松江を「挑戦したい人」に選ばれる町に

Rubyを基盤としたプログラミング教育が進む松江市。まつえ産業支援センターの曽田氏は、市内の学校教育におけるRubyの影響力の大きさをこう説明する。

「義務教育課程のどこかでSmalrubyに触れ、松江がRubyの町だと先生方に教えていただいているからか、松江市の高校生の多くは、Ruby開発者のまつもとさんの名前とお顔を知っているように感じています。松江市内の工業高校や商業高校でも情報系学科の人気は高まっていると、現場の先生方からは伺っています」

まさに「Rubyの町」となった松江市は、今後どのように変化していくのだろうか。

「成長意欲の高い学生さんほど、『成長したいから、都会の企業に行く』という選択をしているようです。しかし、今後は『成長したいから、松江のこの企業を選ぶ』と思えるよう、チャレンジングな企業群づくり・環境づくりをさらに積極的に進めたいと考えています。これらに取り組むため、22年度には『Ruby City MATSUEプロジェクト2.0構想』を具体的に検討する予定です」

熱意ある自治体職員、プログラミング言語の開発者、エンジニア、教員。さまざまなプレーヤーが共創することで、市の産業や教育、若い世代の雇用やライフスタイルにも影響を与えた松江市の「Ruby City MATSUEプロジェクト」。エンジニアを育てるその取り組みは、この地域の子どもたちにさまざまな将来の選択肢を示しながら、今後も進化していくことだろう。

(文:吉田渓、写真:すべて松江市 産業経済部 まつえ産業支援センター提供)