日本人が知らない「リバタリアン大統領」の真価、ハビエル・ミレイはアルゼンチンをどう変えたのか
一経済学者をして世界初のリバタリアン政権を誕生させたのは、ミレイを熱狂的に支持した若者と中道右派勢力との反社会主義連合だ。
しかし、そこには1986年W杯でアルゼンチン代表を世界一に導いたカルロス・ビラルド監督同様、結果にこだわるゴールキーパー経験者としてのミレイ自身の強い精神力としたたかな選挙戦略があった。
アルゼンチンはかつて1人当たりGDP世界一だった
今年2月発売の『ミレイと自由主義革命 世界を変えるアルゼンチン大統領』では、過去1世紀にわたり社会主義に支配されたアルゼンチンの現代史と、ミレイ大統領がオーストリア学派経済学により覚醒し、「文化の戦い」を経て大統領になるまでの軌跡が詳細につづられている。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、アルゼンチンは世界でも有数の豊かな国であり、1895年・1896年には1人当たりのGDPは世界一だった。『ミレイと自由主義革命』著者のマルセロ・ドゥクロス氏の祖父はダマスカスからの移民だが、当時の移住先としてニューヨークとブエノスアイレスは同等であり、多くの家族は費用や船の出港日の都合で渡航先を決めていたという。
この経済的繁栄は、冷凍技術の発達とともに牛肉の輸出が拡大し、鉄道や港湾などのインフラ整備が進められたことなどから実現した。だが1930年の軍事クーデターを皮切りに、厳しい弾圧を行う軍事政権と急進的な社会主義政策を推し進める文民政権が交互に登場し、政治的不安定が続くなか、アルゼンチンの経済は荒廃していく。
1946年に労働組合の支持を得たフアン・ペロンが大統領に就任すると労働者の権利拡大、産業の国有化などのポピュリズム政策を推進し、社会正義の名の下に「福祉」政策を乱発するペロニズムがその後の政治文化を決定づけてしまう。
エビータとして知られる妻のエヴァ・ペロンが貧困層への医療・教育支援や孤児院の設立、女性の権利の向上を進めて人気を得たことも市民の社会主義志向を定着させた要因となった。経済政策の是非よりエビータからサッカーボールや自転車をもらった思い出などからペロン党を支持する年配の有権者は少なくなかったという。
1976年からは再びクーデターにより軍事政権が発足したが、1982年、フォークランド紛争の敗北により軍部の威信が失墜すると、急進左翼のラウル・アルフォンシン政権が誕生。紙幣の増刷と歳出の拡大に歯止めがきかなくなる。1989年のアルフォンシンの退任までに、大臣は8人から42人に、次官は20人から96人に増え、28万人の公務員が任用された。
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