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「東洋経済の社員は仕事をせず囲碁をしている」との噂も流れた…【渋イイオフィス探訪】東洋経済新報社の“1961年竣工”本社の知られざる実態

ライター・山田窓さんが「渋イイ」オフィスビルを巡る連載、スタートです(筆者撮影)
どこにでもありそうな、ちょっと古めのビルに見えるが……(筆者撮影)
住所は日本橋本石町1-2-1。東京駅の日本橋口から徒歩5分の好立地だ(筆者撮影)
前面はアルミのカーテンウォールになっており、スパンドレル(化粧板)はステンレス。軽やかな外観だ(筆者撮影)
5cm刻みで打ち出された凹凸が、西日を浴びキラキラと光ってきれいだ(筆者撮影)
裏側となる首都高側も手を抜かない同じカーテンウォール。青空を映して輝いている(筆者撮影)
裏手には竣工年月(1961.10)を記す金属の定礎板がある(筆者撮影)
メタリックなエントランスがいかにも60年代的だ(筆者撮影)
昔からあるという、展示販売コーナー。月に数人ほど購入者がおり、その際は営業担当者が下りてきてくれるという(筆者撮影)
左手側の奥は待合スペースになっている(筆者撮影)
エントランスの床材は張り替えているそうだが、十分レトロな趣だ。奥の絵画も昔は大きな一枚鏡で、ぶつかる社員が続出だったそう(筆者撮影)
大切な人を迎える応接室である、湛山部屋。理由は石橋湛山(いしばしたんざん)の大きな写真が飾られていたからだそうだ(今はない)(筆者撮影)
見せてもらった1895年の創刊号の現物。出版社だからこそ、すべてアーカイブされている(筆者撮影)
湛山部屋からみる景色。日銀、三菱UFJ銀行、三越などそうそうたる顔ぶれだ(筆者撮影)
優秀会社史賞をとった記念の置時計が置いてあった。社史『東洋経済新報社 百年史』は、この記事の執筆の際に大変お世話になりました(筆者撮影)
同じく8階にある、重大な物事を決める役員会議室。同行した編集者も初めて入ったそうだ(筆者撮影)
これが当時社長室だった場所(の壁面だ)。今は編集局が入っており、その物置となっている。日々の忙しさが目に見える……!(筆者撮影)
9階は戦前からの歴史ある会員制倶楽部「経済倶楽部」とその談話室、研修などを行うホール会場が入っている(筆者撮影)
談話室の内部。当時の写真を見ると、内装はかなり変化しているようだ(筆者撮影)
談話室の一角にある囲碁スぺ-ス。特に歴史がにじみでている(筆者撮影)
今は物置になっているが、ここが当時の厨房だ。天井の配管に面影がある(筆者撮影)
研修などを行うホール会場へ続く廊下のシックな木の壁は、当時のままだそうだ(筆者撮影)
エレベーターホールの両脇の茶色いタイルも、当時から変わっていない。角のアールが当時の流行りだそうだ(筆者撮影)
よく見ると木目や節がある!(筆者撮影)
階段の締切も、当時の手書きのもので味がある。ちなみに撮影中、社員の方が「よいしょっ」と言いながら、柵をずらして降りていった(筆者撮影)
こちらも当時のままという階段(筆者撮影)
凝った手すりのデザイン(筆者撮影)
右上に見える一般的なエアコンだけでなく、窓側にもエアコンがある
地下2階は変電設備や汚水処理タンクなどがある、ビルのコアともいうべき場所だ(筆者撮影)
ひっそりと存在する「第一資料室」。字体がもうレトロだ(筆者撮影)
作り付けの金属製の可動式本棚が数十個立ち並んでいる姿は壮観だ(筆者撮影)
しっかり体重をかけて押すとギギギ……と動きだす本棚(筆者撮影)
中には新旧さまざまな書籍が整然と並んでおり、歴史の重みを感じる(筆者撮影)
天井の剥き出しの配管がまた良く、地下にいることを感じさせる(筆者撮影)
竣工当時の場所ではないのだが、今も「音楽室」としてサークル活動のための部室が残っている(筆者撮影)
ちなみにここが昔のサークル室で、今は倉庫になっている(筆者撮影)
出版社だからこその写真スタジオも地下2階にある(筆者撮影)
竣工当時の東洋経済ビルと、現在のビル(著者撮影)
現在の東洋経済新報社本社ビル(1961年竣工)。日本橋、日本銀行の向かいに建っている(筆者撮影)
東洋経済新報社の創業地があったという牛込区(現・新宿区)新小川町付近。飯田橋駅から徒歩10分程度の場所にある(筆者撮影)
日本銀行、三井本館、三越百貨店など今も戦前に建てられた重厚な石造りのビルが残る日本橋(筆者撮影)
1931年に日本橋に完成した、当時の本社ビル(1940年頃撮影、『東洋経済新報社 百年史』p391より)
今の日本銀行新館の場所に旧本社ビルが建っていたのだ!(筆者撮影)
右から東洋経済本社ビル、日銀分館(貨幣博物館)、日銀本館。見切れた左隣には旧社屋のあった日銀新館がある。あらためて見ると、すごいところに建っている!(筆者撮影)
完成したばかりの本社ビル。まだ首都高もできていない時代だ(『東洋経済新報社 百年史』p821より)
現在のビルの側面は金属パネルになっている(筆者撮影)
1989年に外装を現在のようにリニューアル(筆者撮影)
2階の西側側面は、内側も煉瓦壁となっていて当時のままだ(筆者撮影)
前述の煉瓦壁の内側には、耐震補強のための頑強な鉄骨が通っている(筆者撮影)
耐震補強だけでなく、あらたにコミュニケーショスペースを設けるなど、現代的にリノベーションした(筆者撮影)
ビルの裏側にあるスペース。今はシャッターが降りている(筆者撮影)
「会社四季報」の会社のビルとは思えない(?)かわいらしいデザイン。バブル時代の面影がここに残っている(筆者撮影)
「うすけぼー」へと降りる階段。今は日本橋川の水害対策として、防水板を設置している(筆者撮影)
地下1階、かつての店内に入らせてもらった(筆者撮影)
今は、所狭しと非常食や事務用品などが置かれている(筆者撮影)
レストラン時代の大きな換気扇は、今もゴウンゴウンと音を立てていた(筆者撮影)
首都高の地下化に合わせて、再開発がすすむ日本橋付近(筆者撮影)
東京オリンピック前年に開通した首都高。2040年、実に77年ぶりに日本橋の空が広がる(筆者撮影)
東洋経済本社ビルの裏側では、2004年に作られたビルが解体されている(筆者撮影)
この60年代ビル同士が仲良く建ち並ぶ景観もあと10年なのか……(筆者撮影)
日本橋のランドマークのひとつ、1930年築の日本橋野村ビルディング。外観は残しつつ内部はリニューアル中(筆者撮影)
有楽町にあった有名な60sビル「有楽町ビル」「新有楽町ビル」は再開発のため2023年に閉館・解体された(筆者撮影)
大手町にあった巨大な60sビル「日本ビルヂング」跡地は、日本一の超高層ビル「トーチタワー」が建つ予定(筆者撮影)
再開発でなくなりつつある、古いビル。華やかな最新のオフィスビルが注目を浴びがちだが、あえて歴史ある…