OKI(沖電気工業)執念の工場再生の記録 「脱NTT」を合言葉にEMSで飛躍を遂げた
閉鎖の危機に瀕した工場が、他社工場を次々と買うまでに再生。背景には、1人の男の執念があった。
[ポイント1]
電電ファミリーの一角として国産初の電話機を開発・製造したOKIの本庄工場。安泰だった日常は、NTTの調達方針転換と共に終わりを告げる。
[ポイント2]
同工場は従業員の半数をリストラし、閉鎖の瀬戸際。再構築のため送り込まれた清水光一郎氏は周囲の反対をよそにEMSに照準を定める。
[ポイント3]
大量に安く造るノウハウは台湾や中国にかなわないが、少量多品種生産に活路を見出す。閉鎖寸前だったはずの工場が、他社工場を救済する側に飛躍した。
埼玉県本庄市。桑畑に囲まれたこの地にOKI(沖電気工業、以下沖電気)の本庄工場が出現したのは1962年のことだ。沖電気は国産初の電話機を開発・製造した老舗メーカーである。本庄工場は日本電信電話公社(電電公社)の時代から、交換機や伝送装置をNTTに納め続けてきた。
交換機や伝送装置は、日立製作所、日本電気(NEC)、富士通、そして沖電気という電電ファミリー4社がNTTと共同開発していた。NTT向けの機器や装置はこの電電4社の寡占である。世の中から電話がなくなりでもしないかぎり、本庄工場は安泰だと思われていた。石橋をたたいて渡るがごとく、決して間違いのない堅実で緻密なモノづくりに徹していればよかった。
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