非連続性の経営――グローバル化の本質 楠木 建 一橋大学大学院国際企業戦略研究科 教授
経営の非連続性と経営人材
著者の見解では、グローバル化の最大の壁は、経営人材の不足にある。グローバル化の本質は単に言語や法律が違う国に出て行くということではない。経営が直面する「非連続性」にこそグローバル化の本質がある。つまり、それまで慣れ親しんだロジックが必ずしも通用しない未知の状況で、商売全体を組み立てていかなくてはならない。これは特定の決まった範囲での仕事をこなす「担当者」では手に負えない仕事だ。商売丸ごとを動かし、成果を上げることができる「経営者」が不可欠になる。
ビジネスには「スキル」と「センス」という2つの能力が必要になる。この2つは相当に中身が異なるので、区別して考えたほうがよい。担当者のレベルであればそれぞれの専門分野のスキルがあれば仕事はできる。法務にくわしいとかITを使いこなせるとかファイナンスができるといった意味でのスキルであれば、さまざまな方法で育成することができる。グローバル化の点景として耳目を引く「英語」や「異文化コミュニケーション」も、このスキルの範疇に入る。
しかし、商売丸ごとの経営となるとスキルでは歯が立たない。そこで必要になるのはもはや経営の「センス」としか言いようがない。スキルをいくら磨いても経営者にはなれない。優れた「担当者」になるだけだ(それはそれで企業にとって大切な人材だが)。グローバルであろうとなかろうと、経営人材には商売人としてのセンスが求められる。その本質が非連続性にあるというここでの指摘からすれば、グローバル化とは白紙の上に商売全体の絵を描くことができる経営人材が、最も典型的に必要になる局面であるといえる。
グローバルなスキルを持つ「グローバル人材」がいないからグローバル化が進まないというのは誤解である。未知の状況でゼロから商売丸ごとを動かすセンスを持った「経営人材」がいないからグローバル化が進まないのだ。商売丸ごとを動かせる経営人材はどこでも不足している。経営人材が必要なのはどこの会社でもわかり切っている。そんなに簡単に「育てられる」ものであれば、もっとたくさんの経営人材がとっくに輩出されているはずだ。
直接に「育てる」ことはできないのがセンスだ。1人ひとりが経営センスある人材に「育つ」しかない。他動詞ではなくて自動詞の世界だ。しかも、センスの習得には教科書はない。あっさりいえば、経営人材は経験によってしか育たない。しかも「担当者」としての業務経験では役に立たない。商売丸ごとを経営するという生身の経験を重ねるしかない。ここにジレンマがある。ニワトリと卵だ。
だとしたら経営には何ができるか。まず大切なことは、(潜在的にではあっても)センスのある人を見極めるということ。人事部が(それこそ人事の担当業務として)社員のスキルの有無を把握している会社は多い。スキルであれば領域定義ができる(たとえば英語のスキルと法務のスキルとITのスキルはそれぞれ違ったカテゴリーとして認識される)し、測定することができる(TOEIC何点、とか)。しかし、経営人材としてのセンスの把握ができている企業は少ない。商売センスがある、といってもその中身は十人十色、千差万別だ。センスは定型的な方法ではつかめない。人事担当者の手に負えない仕事だ。センスの有無はセンスのある人に見極めてもらうしかない。
グローバル化したかったら、経営者は社内の経営人材の見極めにもっと時間とエネルギーを割くべきだ。ミスミグループ本社会長の三枝匡さんのやり口はその好例だ。三枝さんは経営という仕事を「創って作って売る」と表現する。ポイントはこの3つを常に連動させる、ここに経営者の役割があるということだ。一気通貫で「創って作って売る」を回していける人材が経営人材だ。この3つを分けてしまえば、その途端に担当者の仕事になってしまう。
そこで、三枝さんは会社のなかに「創って作って売る」商売丸ごとのユニットをたくさん用意する。キャリアの早い段階からセンスのありそうな人を見極めて、商売丸ごとを任せる。やらせてみるとセンスの有無は如実にわかる。そこで成果を上げる人にはさらに一回り大きな「創って作って売る」のかたまりを任せる。そういう機会を多く与えることで、その人の経営人材としてのセンスを見極めることができるし、潜在的なセンスを引き出せる。ニワトリが卵を産み、卵からたくさんのヒヨコが生まれ、ヒヨコがニワトリに成長していくというサイクルが回り出す。この繰り返しのなかから経営人材が育ってくる。経営センスを直接「育てる」ことはできなくても、センスが「育つ」土壌なり場を整えることはできる。そこに経営の役割がある。