
一橋大学大学院国際企業戦略研究科 教授
1964年東京都生まれ。92年一橋大学大学院商学研究科博士課程修了。一橋大学商学部助教授および同イノベーション研究センター助教授などを経て、2010年より現職。専攻は競争戦略とイノベーション。主な著書に『ストーリーとしての競争戦略―優れた戦略の条件』(東洋経済新報社)、Dynamics of Knowledge, Corporate Systems and Innovation、Management of Technology and Innovation in Japan(いずれも共著、Springer)がある。
眺望と点景
この夏、アムステルダムに行く機会があった。電車で1時間の距離なので、ついでにデン・ハーグまで足を延ばした。目的はこの町にあるフェルメールの名作『デルフトの眺望』だ。
超人気画家だけに、日本でもフェルメールの展覧会は割と頻繁に開かれる。ただし、デルフトの南を流れるスキー河沿いの市街風景を描いたこの絵は、先方に何か方針があるのか、デン・ハーグを出ることはめったにない(らしい)。実物を見るためには、こちらから出向くしかない。
『デルフトの眺望』はデン・ハーグ駅の近くにあるマウリッツハイス美術館に収蔵されている。ところが、このときはマウリッツハイスが改修のため閉館中で、フェルメールの絵は割と離れたところにあるハーグ市立美術館で展示されていた。そこまで行くのが面倒だったのだが、行ってみると人が少なくてかえってよかった。
図版で繰り返し見てきた絵だが、実物を見て痺れたことは言うまでもない。よく知られているようにフェルメールは光の扱いが天才的なのだが、この肝心の光のすごさが図版ではどうしても味わえない。ナマの『デルフトの眺望』は文字どおり光り輝いていた。
ただし、実物鑑賞の最大のメリットは「絵そのものがよく見える」にあるわけではない。絵との距離を自由に選ぶことができる。ここに美術館で実物を見るいちばんの価値がある。
優れた絵ほどビシッと決まる鑑賞距離がある。絵に近づいたり離れたりしているうちに、だんだん最適距離がつかめてくる(混んでいる展示ではこういうことができないので、空いている市立美術館での展示はありがたかった。マウリッツハイスだったら、こうはいかなかっただろう)。最適距離で味わう『デルフトの眺望』の眺望にはたまらないものがあった。
よくいわれるように、この絵のすごさは河のこちら側の岸にいる点景の2人にある。遠景は明るく、河の向こう岸、近いところにある門や船や教会は、重たい雲が空を通過中のため暗い。こちら岸はニュートラルな明るさなのだが、そこに頭巾をかぶっている2人が立っている。白い頭巾が明るく光っている。
この辺が「光の天才」ならではの名人芸だ。ごく小さな点景なのだが、この2人がいるのといないのとでは、絵の力がまるで違ってくる。『デルフトの眺望』のツボは点景の人物にある。
絵を見るたびにいつも思うのだが、鑑賞最適距離は事前に想像するよりも、少し遠いところにあることが多い。『デルフトの眺望』はその典型だ。手前の人物に力があるので、まずは本能的にこの2人に顔を近づけてしまう。言うまでもないことだが、接近してそれだけ見れば、2人の重要人物はただの点景で、驚くほどあっさりと描かれている。鑑賞のフォーカスがばっちり決まるということと、近づいて絵の特定部分を見るのに集中するということは似て非なるものだ。
点景その1:英語

グローバル化が日本企業の経営にとって重要なのは間違いない。どこの企業の人と話をしても、このところ決まってグローバル化への対応が話題になる。とにもかくにも「グローバル化」が重要で大切で核心で必須で不可欠で時代の趨勢、避けて通れませんよ! という話だ。
ここに落とし穴がある。事の本質を押さえずに「グローバル化!」の掛け声に飲み込まれてジタバタするとロクなことにならない。点景に接近しすぎるあまり、全体像が見えなくなってしまう。全体像が見えなければ、有効な手も打てない。
グローバル化が難しい最もあからさまな理由は「言語」にある。要するに英語の壁だ。「これからは英語!」「英語のスキルが不可欠!」、このところひっきりなしに叫ばれている(昔からそうだったが、いよいよ最近は本格化してきた)。何といっても言葉の違いは大きい。逆にいえば、言葉さえ通じれば何とかなる。もし世界中の人がなぜか日本語を使っている(もしくは、使おうと思ったら使える)としたらどうだろうか。ずいぶん気楽な世の中になるはずだ。「英語」はグローバル化のツボの1つであることは間違いない。
成り行き上たまたま母国語が世界共通語になった米国人や英国人は幸運としか言いようがない。昔から「英国の最も競争力のある輸出品は英語だ」と言う。英語と似た構造を持ち、アルファベットを使う言語を母国語に持つ人もまずまず幸運だ。それに比べて日本語はもうどうしようもない。でも、愚痴を言ってもしかたがない。不運は努力で克服するしかないのが世の定めだ。とりあえず英語でコミュニケーションできるようになるしかない。
ところが、そう言うといきなり「英語力」という話になってしまう。この飛躍が曲者だ。手段が目的化してしまう。言葉としての英語そのものの質はあくまでも二次的な問題だ。それなのに、まじめな人々は「英語力」の目標を高すぎるところに設定して、いらぬ苦労をしたり、勝手に不安になったりする。
グローバル化が求めるコミュニケーションスキルは、英語力ではない。文字どおりコミュニケーションそのもののスキルがあればよい。ブロークンな英語でまったく構わない。コミュニケーションがうまくいくこと、一緒に仕事ができることが目的なのであって、意思と気持ちが通じればそれでよい。
個人的な経験で話そう。筆者が所属する一橋大学大学院国際企業戦略研究科(以下、長いので「ICS」と省略)のMBAプログラムでは、すべての講義を英語で行う。筆者はアフリカで育ったこともあって、相対的に外国語に親しむ幼少期を過ごしたのだが、小学校の高学年からはずっと日本で暮らしてきた。英語がペラペラでも何でもない。
12年前にICSに来て、英語で講義をやり始めてみると、日本語で教えるのと比べてずいぶん疲れた(今でもそうだが)。それでも相手に理解させることはできるし、何とかコミュニケーションも取れる。もちろん、英語がもっと上手になるに越したことはない。しかし、どうも英語のセンスが自分にあまりないらしいことがわかってきたので、英語レベルを上げるための特段の努力はいっさいしないようにしている。
ICSのMBAプログラムには、20カ国以上から生徒が集まってくる。米国人など英語がネイティブな人もいるが、割合としてはアジア出身者がずっと多い。ICSの学生の80%は母国語が英語ではない。かつては、ビジネスで英語をしゃべっている人はそもそも英語圏の人が多かった。ところがグローバル化が進み、現在その割合はずっと小さい。そもそも母国語が英語でない人が、業務上英語を使っていることが多いのが実態だ。そうなると、お互いに配慮しつつ、何とか意思疎通を図っていく、そういうコミュニケーションが当たり前になる。ICSの教室はグローバル化したビジネス社会の縮図になっている。
日本人の英語に対する構えはいかにも過剰だ。いきなりネイティブの英会話の講師が使うような、「こなれた英語」がモデルになってしまう。めざすべきモデルは少し違うところにある。ICSの同僚の日本人にも、とにかく英語が上手な人がいる。洗練された英語を実に流暢にしゃべる。うらやましく思っているのだが、初めからこういう人をめざしても、どうしようもない。自分で英語のハードルを上げてしまい、かえって英語がイヤになる。
筆者が英語でのコミュニケーションという点でモデルにしているICSの先輩教授がいる。米国で学位を取り、その後はコンサルティングの世界でグローバルに活躍した人で、経歴からしてさぞかし英語が上手そうに見える。しかし、彼の英語での講義を初めて聞いて軽く驚いた。独特のクセがある発音で、文法も割と不正確。ただし、そんなことはいっさい気にせずよくしゃべる。この教授のように、英語が必ずしも流麗でなくても、英語でのコミュニケーションが上手な人がいるものだ。そういう人は、面白いことに、日本語で話しているときと英語で話しているときとで、受ける印象にまったく違いがない。英語でも日本語でも、同じ自分のスタイルでコミュニケーションをしているということがよくわかる。英語そのもののスキルよりも、コミュニケーションの内容、姿勢、スタイルがものをいう。
大切なことは、「英語がそれほど上手でもないのにコミュニケーションはすごい人」を見つけてよくよく観察することだ。英語ではなく、その人のコミュニケーションの仕方を観察して、まねて、学ぶ。これが英語でのコミュニケーション力をつける王道だと思う。
点景その2:多様性
グローバル化が難しい理由として、英語と並び称されるのが「多様性」の問題だ。言葉の問題が何とかなったとしても、違った国に出ていくと、日本のなかでのやり方がそのまま通用するわけではない。経営が直面する多様性は増大する。「ダイバーシティ」とか「クロスカルチュラル・マネジメント」が注目されるという成り行きだ。異なる文化、人種、性別、宗教などの多様性を受け入れれば、それはむしろモノカルチャーの経営に比べてより幅広く柔軟なアイディアを取り込み、経営に生かしていくことができる。ダイバーシティという言葉には、こうした積極的な意味合いがある。
ただし、「多様性」にはトリッキーな面がある。このところの「ダイバーシティが大切だ!」という掛け声にしても、ともかく多様性を受け入れることそれ自体が目的になってしまっているフシがある。「英語力」と同じように、点景に注目しすぎると全体像が見えなくなってしまう。
企業のなかに多様性を取り込めば、それで何か良いことが次々に起きるかのような安直な議論が横行している。しかし、多様性それ自体からは何も生まれない。多様な人々や活動を1つの目的なり成果に向けてまとめ上げなければ意味がない。要するに、多様性の先にある「統合」に経営の本領がある。経営の優劣は多様性の多寡によってではなく、一義的には統合の質によって左右される。「ダイバーシティが大切だ!」という話をよく聞くと、経営にとって肝心要の統合についての理解が割と浅薄なことが多い。多様性は良いにしても、その統合となると「グローバル・スタンダード」という空疎なテンプレートに寄りかかってしまう。
統合の仕組みは経営そのものであり、独自の価値創造の根幹を支えるものの1つだ。これからはグローバル化だ、多様性だといって、これまで培ってきたその企業なりの統合の仕方を全部ご破算にして(本当はそんなことは絶対にできないのだが)「グローバル・スタンダード」に移行してしまえば、元も子もない。経営の自己否定といってもよい。
「英語」と「多様性」、この2つは確かに大切な要素だが、グローバル化の全体像の点景にすぎない。目を引くからといって点景に接近しすぎてしまうと、全体の眺望が見えなくなる。
経営の非連続性と経営人材

著者の見解では、グローバル化の最大の壁は、経営人材の不足にある。グローバル化の本質は単に言語や法律が違う国に出て行くということではない。経営が直面する「非連続性」にこそグローバル化の本質がある。つまり、それまで慣れ親しんだロジックが必ずしも通用しない未知の状況で、商売全体を組み立てていかなくてはならない。これは特定の決まった範囲での仕事をこなす「担当者」では手に負えない仕事だ。商売丸ごとを動かし、成果を上げることができる「経営者」が不可欠になる。
ビジネスには「スキル」と「センス」という2つの能力が必要になる。この2つは相当に中身が異なるので、区別して考えたほうがよい。担当者のレベルであればそれぞれの専門分野のスキルがあれば仕事はできる。法務にくわしいとかITを使いこなせるとかファイナンスができるといった意味でのスキルであれば、さまざまな方法で育成することができる。グローバル化の点景として耳目を引く「英語」や「異文化コミュニケーション」も、このスキルの範疇に入る。
しかし、商売丸ごとの経営となるとスキルでは歯が立たない。そこで必要になるのはもはや経営の「センス」としか言いようがない。スキルをいくら磨いても経営者にはなれない。優れた「担当者」になるだけだ(それはそれで企業にとって大切な人材だが)。グローバルであろうとなかろうと、経営人材には商売人としてのセンスが求められる。その本質が非連続性にあるというここでの指摘からすれば、グローバル化とは白紙の上に商売全体の絵を描くことができる経営人材が、最も典型的に必要になる局面であるといえる。
グローバルなスキルを持つ「グローバル人材」がいないからグローバル化が進まないというのは誤解である。未知の状況でゼロから商売丸ごとを動かすセンスを持った「経営人材」がいないからグローバル化が進まないのだ。商売丸ごとを動かせる経営人材はどこでも不足している。経営人材が必要なのはどこの会社でもわかり切っている。そんなに簡単に「育てられる」ものであれば、もっとたくさんの経営人材がとっくに輩出されているはずだ。
直接に「育てる」ことはできないのがセンスだ。1人ひとりが経営センスある人材に「育つ」しかない。他動詞ではなくて自動詞の世界だ。しかも、センスの習得には教科書はない。あっさりいえば、経営人材は経験によってしか育たない。しかも「担当者」としての業務経験では役に立たない。商売丸ごとを経営するという生身の経験を重ねるしかない。ここにジレンマがある。ニワトリと卵だ。
だとしたら経営には何ができるか。まず大切なことは、(潜在的にではあっても)センスのある人を見極めるということ。人事部が(それこそ人事の担当業務として)社員のスキルの有無を把握している会社は多い。スキルであれば領域定義ができる(たとえば英語のスキルと法務のスキルとITのスキルはそれぞれ違ったカテゴリーとして認識される)し、測定することができる(TOEIC何点、とか)。しかし、経営人材としてのセンスの把握ができている企業は少ない。商売センスがある、といってもその中身は十人十色、千差万別だ。センスは定型的な方法ではつかめない。人事担当者の手に負えない仕事だ。センスの有無はセンスのある人に見極めてもらうしかない。
グローバル化したかったら、経営者は社内の経営人材の見極めにもっと時間とエネルギーを割くべきだ。ミスミグループ本社会長の三枝匡さんのやり口はその好例だ。三枝さんは経営という仕事を「創って作って売る」と表現する。ポイントはこの3つを常に連動させる、ここに経営者の役割があるということだ。一気通貫で「創って作って売る」を回していける人材が経営人材だ。この3つを分けてしまえば、その途端に担当者の仕事になってしまう。
そこで、三枝さんは会社のなかに「創って作って売る」商売丸ごとのユニットをたくさん用意する。キャリアの早い段階からセンスのありそうな人を見極めて、商売丸ごとを任せる。やらせてみるとセンスの有無は如実にわかる。そこで成果を上げる人にはさらに一回り大きな「創って作って売る」のかたまりを任せる。そういう機会を多く与えることで、その人の経営人材としてのセンスを見極めることができるし、潜在的なセンスを引き出せる。ニワトリが卵を産み、卵からたくさんのヒヨコが生まれ、ヒヨコがニワトリに成長していくというサイクルが回り出す。この繰り返しのなかから経営人材が育ってくる。経営センスを直接「育てる」ことはできなくても、センスが「育つ」土壌なり場を整えることはできる。そこに経営の役割がある。
ビジネススクールの意義
手前みそだが、一橋ICSのMBAプログラムもまたグローバル化を支える経営人材が育つ場の提供を意図している。「英語」で「専門的なビジネス知識」を学ぶというと、一見スキルの教育を目的としているように見えるかもしれない。もちろん、スキルの習得は目的の1つではある。専門的な知識やスキルはグローバル化したビジネスの共通言語だから、それはそれで必須の知識だ。
しかし、ICSの真のねらいは「グローバルなセンス」を磨くことにある。筆者が教えているStrategyという科目を例に取れば、講義のなかで戦略論の基本的な概念やフレームワークをひととおり教える。しかし、それだけであれば、極端にいえば優れた教科書を読めば、(もともとアタマのいい人であれば)かなりの程度までマスターできることだ。仕事を中断して、わざわざフルタイムのコミットメントを必要とするビジネススクールに来る強い理由はない。
専門分野の知識なりスキルのトレーニングを超えて、ビジネスについてのその人に固有の「物の見方」や「構え」を確立する。ここに講義の本当の目的がある。学生は教室での講義はもちろん、教室の外でもスタディグループや特定の課題についてのグループプロジェクトで共通の問題(筆者の講義でいえば競争戦略)について繰り返し議論を重ねる。さまざまな異なる視点を持った人々としつこく対話を積み重ねることによって、自分の物の見方が相対化される。グローバルな文脈で他者と相対化することによって、ビジネスに対する自分自身の視点なり構えが初めて明確に意識される。さらには、さまざまな自分と異なる物の見方にさらされることによって、それまでの自分を乗り越える理解が切り拓かれる。「センスを磨く」というのはそういうことだ。
ICSの意図がすべて英語で講義をするインターナショナルスクールを選択した理由もそこにある。単純に語学力やコミュニケーションスキルを身に付けるということが目的ではない。グローバルな経営センスを磨くための場をつくるためには、教室や学生のコミュニティそのものがグローバルでなければ話にならない。いろいろな国から来た、バックグラウンドや経験や視点や思考様式が異なる人々と日常的にしつこく対話する場に放り込まれれば、いやでも自分の視点の限界が浮き彫りになるし、グローバルなビジネスへの構えが生まれる。
グローバル化のためのスキル育成に注力するだけではグローバル化はおぼつかない。本当の因果関係は「ビジネスが直面する非連続性が大きくなるほど、商売丸ごとを動かせる経営人材が必要になる」ということにある。非連続性に挑戦する経営の最も典型的な表出形態としてグローバル化がある。
センスのある経営人材は多くの会社にとって最も希少な資源だ。グローバル化は、経営人材の確保という経営にとって最重要の課題に真正面から取り組む格好の機会を提供している。
