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慶應SFCは「米軍を迎撃する拠点」だったのか? 湘南・藤沢で起きるはずだった「幻の地上戦」と知られざる軍都の歴史

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辻堂駅の風景
戦時中、藤沢の小田急沿線には軍事施設が立ち並んでいたという(写真:Sakosshu Taro/PIXTA)
  • 清水 亮 慶應義塾大学 環境情報学部 専任講師

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太平洋戦争末期、軍都化が進む藤沢には本土決戦の陣地が作られました。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)が米軍を迎撃する拠点だった驚きの歴史と、相模湾で起こるはずだった幻の地上戦に迫ります。清水氏の新著『軍都を歩く』から一部抜粋・編集してお届けします。

藤沢の軍都化

1937年、日中戦争が始まると、日本軍は中国の主要都市を占領していく。

各地で戦勝を祝う旗行列・提灯(ちょうちん)行列が展開されるが、藤沢も御多分に漏れない。上海や首都南京の陥落を祝う、全町民に開かれた提灯行列は、辻堂駅前をスタートして、東海道を歩き、藤沢駅前で解散するルートで行われた(『横浜貿易新報』10月31日付、12月9日付)。

辻堂地域はさらに軍都化していく。38年に関東特殊製鋼の工場・本社が辻堂駅北口(現・テラスモール湘南)に移転し、40年には国家総動員法に基づく海軍管理工場の指定を受けて、軍需品を生産し始める。市内各所に軍需工場が置かれて人口が増加するなかで、同年藤沢町は市制を施行する。

かつて辻堂駅開設時に、駅設置運動の中心人物・桜井兵四郎は、「駅できて きつねたちのく 月夜かな」と、即興の句を読んだ。きつねがいるほどの未開発の田園にできた駅は、開駅当初こそ一日平均利用人数は225人にすぎなかったが、45年には3501人に達する。

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