後者は、45年6月施行の義勇兵役法に基づき、臨戦時に15~60歳の男子および17~40歳の女子が召集される国民義勇隊を含んでいた。いわば地域住民が米軍と戦うはずだった。これらの「狂信的な大衆」を脅威に感じていた米軍は、毒ガスの使用も検討した形跡がある。
SFCで米軍を迎撃
ところで私の勤務先・慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(略称:SFC)も、戦争と無関係ではない。湘南と聞けば海沿いかと想像する方もいるだろうが、キャンパスは辻堂海岸から10キロほど内陸の、なだらかな丘の上だ。
さらに北5キロ強の地点に米海軍と海上自衛隊が共同利用する厚木飛行場(大和市・綾瀬市)が立地する。もとは1942年に完成し本土防空の任務にあたった海軍厚木飛行場である。この丘陵地帯は、コロネット作戦計画において、まさに首都攻略へ進撃する米軍が、蹂躙(じゅうりん)していくルート上のエリアである。
SFC造成中の発掘調査で、「防空壕」が9か所も発見されたと報告書に記載されている(調査後に埋め戻された)。慶應義塾大学といえば、日吉(ひよし)キャンパス(横浜市港北区)にある海軍連合艦隊司令部の地下壕が有名だが、湘南藤沢キャンパスも戦争と無縁ではなかったのだ。
藤沢市と藤沢ケーブルテレビが96年に制作した映像作品『戦時下の藤沢』における取材によると、これらは単なる「防空壕」ではなく、戦闘を想定した戦術地下壕であり、武器弾薬や食料の収蔵スペースが設けられていた。
地元住民の証言によると、掘っていたのは陸軍の兵士だ(「シナリオ『戦時下の藤沢・藤沢にも戦争があった』」)。地下壕はキャンパス北西の御所見(ごしょみ)地区など周辺にも数多く見つかった。
防衛研究所所蔵の相模湾地帯の陣地配置図(『アメリカ軍の見た藤沢』所収)を見ると、「御所見」を中心にした南北に長い楕円のなかに、一個大隊配備を意味する「一大」の文字が書かれている。ちょうど楕円の南端は、SFC敷地にかかっている。
調べるとたしかに、旧御所見村(現・藤沢市)の陣地には、第140師団歩兵第404聯隊(れんたい)所属の歩兵一個大隊(およそ500名程度)が配置されていた。配備地区の南端に位置するSFCの丘は、米軍を迎え撃つ拠点となりうる地形だ。


※ログイン後、コメント入力が可能です。