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慶應SFCは「米軍を迎撃する拠点」だったのか? 湘南・藤沢で起きるはずだった「幻の地上戦」と知られざる軍都の歴史

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辻堂駅の風景
戦時中、藤沢の小田急沿線には軍事施設が立ち並んでいたという(写真:Sakosshu Taro/PIXTA)
  • 清水 亮 慶應義塾大学 環境情報学部 専任講師
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さらに配置図のSFC付近(現・藤沢市遠藤地区)を北端とする旧小出村(こいでむら)付近を見れば、全体では歩兵2個大隊相当の兵力が配備されている。

しかし、SFCへ向かう南側正面には、3個の小隊(50名弱)がバラバラに配置されていて、両脇に中隊や大隊が配置されていることに比べて明らかに手薄だ。そこを突破されても、さらに北の御所見村の大隊がSFCの丘で迎撃できるということではないか、などと現地の地形を踏まえて想像できる。

いずれにせよ、遺跡報告書に記されていた9か所の壕は、米軍を迎え撃つべく穴を掘っていた兵士たちの痕跡だ。

相模湾の防衛を担当した第53軍の司令官赤柴八重蔵(あかしばやえぞう)は、兵士の訓練よりも防衛陣地構築を重視して本土決戦に備えていた。

『相模湾上陸作戦』によれば、45年4月16日に相模原市相武台(そうぶだい)に軍司令部が開設されてほどなく、赤柴は4月26日と5月5日に、先述した小出村の陣地を視察している。視察時点で陣地構築の重点は、海岸線よりも内陸部にあった。

藤沢市の地形を見れば、おおよそ国道1号(旧・東海道)より北側から、なだらかな関東ローム層の相模原台地となり、厚木海軍航空隊や新型軍都の相模原へ続いていく。その相模原台地の各所に、防衛拠点がつくられていた。

玉砕戦術を想定して築かれた攻撃陣地

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しかし、赤柴は、6月以降になると、内陸ではなく海岸の陣地の構築に重点を移し、片瀬海岸から辻堂海岸を経て茅ヶ崎海岸までの砂浜に水際陣地を構築し始める。

これは防御陣地ではなく、攻撃陣地であった。敵が上陸したら、砂浜に掘られた坑道方式や蛸壺(たこつぼ)型の陣地に隠れていた兵士たちが、突撃して刺し違えるという凄惨な玉砕戦術が想定されていた。相模湾中央部に配置された第316師団は、日露戦争後から使われてきた三八式歩兵銃さえ行き渡らず、竹棹2000本を用意したという有様だった。

風光明媚な砂浜の陣地に潜み、前方からは米軍の射撃を、後方から江の島と大磯を中心とする砲台から放たれる味方の十字砲火も浴びながら、波打ち際へ突撃し倒れていく寄せ集めの歩兵たち。それは湘南海岸で起こる可能性のあった惨劇である。

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