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慶應SFCは「米軍を迎撃する拠点」だったのか? 湘南・藤沢で起きるはずだった「幻の地上戦」と知られざる軍都の歴史

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辻堂駅の風景
戦時中、藤沢の小田急沿線には軍事施設が立ち並んでいたという(写真:Sakosshu Taro/PIXTA)
  • 清水 亮 慶應義塾大学 環境情報学部 専任講師
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日米開戦後、藤沢は海軍の軍都となっていく。

戦時中の藤沢の風景

戦況が窮迫し学徒出陣壮行会が神宮外苑で行われた43年10月には、関東特殊製鋼の敷地内に、第一海軍衣糧廠辻堂支廠という海軍直営の軍需工場が建てられた。マリアナ沖海戦で壊滅的な敗北を喫し、サイパン島陥落が目前となる44年6月には、藤沢市善行(ぜんぎょう)のゴルフ場跡地に藤沢海軍航空隊が開設され、予科練の少年兵などが訓練を行った。同月にはレーダーを扱う海軍電測学校も開校する(開校時の名称は横須賀海軍通信学校藤沢分校)。

跡地は現在、湘南台駅付近のいすゞ自動車工場である。湘南台駅を含む旧六会(むつあい)村は1942年に藤沢市と合併したが、六会駅付近には34年から海軍の電信所が設置されていた。このように戦時下の藤沢には、おおよそ小田急線の各駅に海軍施設が立ち並ぶ風景が広がっていた。

藤沢海軍航空隊・電測学校が開かれた44年6月の『横浜貿易新報』記事には、「軍都翼壮懇談」の文字が躍る(6日付)。大政翼賛会傘下の翼賛壮年団の藤沢支部が、横須賀支部を鵠沼のホテルに招いて「軍都の翼壮は何を為すべきや」と題した懇談会を開いたのだ。

会は「先輩格の軍都が後輩の藤沢へ軍都化につれての示唆啓蒙に大きな効果」をもたらしたと報じられた(10日付)。

ただ、その「先輩」横須賀からの「啓蒙」の中身はというと、「一、海軍軍人に進んで住宅を提供斡旋する(食糧は必要ない)」「一、親切第一に待遇すること(例えば御自由にお休み下さい)」とある。その程度なら、藤沢市内の辻堂の演習場経験を聞けば十分わかったはずだ。

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