45年に入ると、軍需産業が集積した京浜工業地帯は空襲を受け、7月16日から17日未明にかけては、海軍の火薬廠や軍工廠、軍需工場があった平塚(ひらつか)市がB29爆撃機132機によって東京大空襲を上回る約45万本の焼夷弾(しょういだん)の投下を伴う空襲により、全戸の8割が全焼した。
そしてついに、7月30日には辻堂駅北口の関東特殊製鋼が、空母艦載機の機銃掃射と爆撃を受け壊滅状態となり、従業員5名が犠牲となった。
ただし、結果的には藤沢市内の空襲被害は、死者総数21名にとどまった。平塚市は300名以上で一桁違う。増加傾向にあった藤沢市の人口は41年時点で4万3000人を超えていた。軍都が必ずしも、それに見合う大きな空襲被害を受けるとは限らない。
幻の東京侵攻作戦
さらに、もしも戦争が長引いていたら、湘南は地上戦で壊滅状態になったはずだった。日米両軍の作戦資料から、幻の東京侵攻作戦を研究した大西比呂志ほか著『相模湾上陸作戦』に基づいて記述していこう。
米軍は、沖縄占領後に九州を攻略するオリンピック作戦の次に、東京攻略のコロネット作戦を立案していた。千葉県の九十九里(くじゅうくり)浜への上陸を陽動としつつ、主力は相模湾から上陸して東京を目指す計画だ。
茅ヶ崎海岸に上陸後の米軍本隊は、相模川沿いに北上し、相模原方面へ、厚木飛行場などの航空基地を奪取しながら進軍する予定だった。
米軍が想定していた交戦相手は、正規軍だけではない。米軍史料は、在郷軍人や「多少の装備と訓練を施された膨大な数の義勇防衛隊」を挙げている。


※ログイン後、コメント入力が可能です。