そもそも、「編集者は書き手を育てるべきか?」論争における「育てる」とはいったい何を意味しているのだろうか。
「知の彫刻」を削り出すサポート役だった編集者
昭和の時代、特に新書(岩波新書や中公新書など)や総合雑誌の現場では、編集者は単なる「原稿の回収係」ではなかった。彼らは、書き手の「過剰な専門性」や「独りよがりな表現」を、一般社会の言葉へと翻訳する「知のバランサー(あるいは通訳者)」であった。
大学の教授が書く難解な論文調の文章に対し、編集者は「これでは普通の会社員や学生には伝わりません」「ここをもっと噛み砕いてください」と注文を付けることが普通だった。この時代に出版された新書のあとがきなどを読むと、その苦労が感謝の言葉とともにつづられているのをよく目にする。
彼らが求めたリーダビリティ(読みやすさ)とは、単に「売れるための通俗化」ではなく、「この知識を社会の共通資本にするための公共性」であった。編集者は、書き手のプライドを守りつつ、一般の社会に通用する形へと「知の彫刻」を削り出す作業をサポートした。
2代目光文社取締役社長を務め、かんき出版の設立者でもある神吉晴夫は、1961年に新書レーベルの「カッパ・ブックス」から出した『英語に強くなる本』(岩田一男著、光文社)の制作過程を振り返り、「先生と教え子ではない。執筆者と編集者のたたかいだ」「なんべんもなんべんも話合いをかさね、企画をねりあげた」と述べている(神吉晴夫著『編集者、それはペンを持たない作家である 私は人間記録として、自分の感動を多くの読者に伝えたかった。』実業之日本社)。
