一時期「出版社は著者のフォロワー数を基準に出版の可否を判断している」という内部事情に関するSNSの投稿が拡散された。これはまさにケヴィン・ケリーが唱道するビジネスモデルに、出版社の側が便乗してきた典型例と言ってもいい。「何でも買ってくれるファン」が売り上げの確実性を担保してくれるからだ。
だが、このような「パトロン2.0」の生態系は、特に新人や未熟な書き手にとって極めて厳しいものになる恐れがある。もちろん、テクノロジーの恩恵によってサブスクなどで生計を立てることが可能になることは素晴らしいことだ。しかし、最初から「仕上がっている」書き手しか求められなくなる状況においては、有益な経験を積めないまま市場のリアルな審判にさらされ、その多くが疲弊することになるかもしれない。
「育てるって何?」という論争の本質
興味深いのは、この地殻変動への危機感からか、現在、クリエイターの最前線では「編集者」の再興が模索されていることだ。アメリカでは、オンラインプラットフォームで経済基盤を得たトップクラスの書き手が、自費で「フリーランスの優秀な編集者」を雇うケースが増えている。彼らは、良質なコンテンツにするために、出版文化の生きた知恵を金で買っているのである。
また、孤立した書き手たちが集まり、お互いの原稿を査読・編集し合うギルドのような独立型のコミュニティが国内外を問わずウェブ上に自然発生している。そこには、編集部のような役割を代替させようとしている側面がある。
歴史を振り返れば、18世紀のイギリスを代表する文学者、詩人で、近代英語の基礎を築いた「英語辞典」の編纂で有名なサミュエル・ジョンソンは、パトロンと決別した際も、たった一人で辞書を作ったわけではなく、助手や印刷業者との協働で完成にこぎつけた。伴走するパートナーたちだ。
「育てるって何?」という論争の本質は、テクノロジーによって「書くこと・売ること」が個人化された今、孤独な自前主義の困難という形で表面化している。そして、「かつて編集者が担っていた公共性という視点を、わたしたちはどうやって取り戻すべきか」という、近代以降の出版文化の遺産を巡る切実な問いかけともなっているのだ。

