担当編集が「原稿についての厳しい批判」を展開したとしており、具体的には、「ややもすれば、学習参考書的・学校教師風になりがちな文体と発想を、いちいち指摘した」という。また、著者の膨大な知識から「面白い表現」を引き出し、それで1章作ってくださいと提案するといった形で内容をまとめていったと述懐している。
ここにおけるリーダビリティは、先に示した通り公共性そのものである。そして、その公共性とは、大衆社会のことを意味している。大衆社会とは、産業革命とそれに続く技術革新により、人々が画一的な大量生産・大量消費、マスメディアを通じて同じ情報や娯楽を共有する近代以降の現象である。
「育てる」のルーツの一つとなった「啓蒙モデル」
筆者は、ビッグヒストリーの観点から、書き手のライフスタイルを3つの時代に分けた。筆を執ることは特権階級のものとされた「贈与と義務の時代」(〜18世紀)、国民国家の創生を起点とする「商業化の時代」(19世紀後半〜20世紀末)、IT技術の進展に伴う「脱専業化の時代」(21世紀〜)である。
これをパトロン的な機能として見ると、書き手が中世の貴族などのお抱えであった「食客の時代」と、近世の豪商などが支えた「同好の士の時代」が「贈与と義務の時代」、近代以降の出版システムが巨富をもたらした「スターの時代」が「商業化の時代」、個人がプラットフォームを介して課金する「推しの時代」が「脱専業化の時代」に対応している。
とりわけ「商業化の時代」は、中間層の台頭が大前提となっている。日本においては大正時代にそれが始まった。国文学者の前田愛は、「すでに講談社の『キング』は大正十四年一月の創刊号で七十万部を越える発行部数を記録し、新潮社の『世界文学全集』は五十八万の予約読者を獲得」したと書いている(『近代読者の成立』岩波現代文庫)。
のちに「円本ブーム」(低価格の全集ブーム)と呼ばれる大衆社会的な消費のさきがけである。前田は、問題の核心は、「その結果として顕在化した厖大な享受者層そのものの中にあった」とし、「改造社の広告が『民衆』というシンボルを執劫に繰り返した事実が端的に示しているように、出版機構の自由に操作しうる《大衆》が登場した」(同上)ことに言及する。
『君たちはどう生きるか』の著者として、また雑誌『世界』初代編集長としても知られる吉野源三郎は、日本で最初の新書である岩波新書について、「おおぜいの読者に読まれなければ無意味ですから、そのための工夫がいろいろと必要」と述べ、「無名の民衆の仕合せに役立つこと」に重点を置いていたと回想している(『職業としての編集者』岩波新書)。これこそが前田のいう「大衆」を意識した編集哲学であった。
つまり、大衆を「啓蒙」するためには、大衆に広く伝えることができる「型」が必要であり、それを編集者も書き手も踏まえることが重要視されていたといえる。この「啓蒙モデル」は、「文体と発想」を一般向けに落とし込む「カッパ・ブックス」の時代にも引き継がれ、現在に至っている。これが「育てる」のルーツの一つである。
