これが可能だった主な理由としては、出版社が「育成コスト」を丸抱えし、時間をかけて著者を育てるだけの経済的な余裕があったことが大きい。また、前回説明したように、マンガ・文芸と一般書・実用書・週刊誌ルポのジャンルの違いも考慮しなければならない。
前者の編集者は、共同経営者・投資家のようなもので、「育てる」ことが未来の資産(IP)になるため、育てねば共倒れする。後者は、プロデューサー・発注者に近く、「即戦力」に頼らなければトレンドに乗り遅れるという傾向が強い。特にインターネットの普及以降は、雑誌の衰退とともにこの傾向に拍車がかかっている。
編集者が消えた「パトロン2.0」の経済で起こること
では、バランサーの立ち位置にいた編集者が消え、書き手が読者(ユーザー)と1対1で直接向き合う現代の「パトロン2.0」の経済では何が起こるのだろうか。そこにあるのは、書き手のユートピアではなく、2つの罠が待ち受けるジャングルである。
1つ目がアルゴリズムへの過剰な最適化だ。出版文化の末裔である編集者がいない環境で、書き手を導く「神」となるのは、プラットフォームの「アルゴリズム(数字)」となる。「どんなタイトルならクリックされるか」「どうすればタイムラインでバズるか」ばかりを意識した結果、文章はそれらの効果を最大化しようと過剰適応する可能性がある。
2つ目は、自分にお金を払ってくれる「コアなファン(パトロン)」に依存するがゆえの先鋭化である。編集者は大なり小なり「少し引いた目線から批評する職業的態度」を持っているが、熱狂的なファンは「自分たちが心地よくなる言葉」を求める。書き手は、パトロンを失う恐れから、彼らの期待に沿う記事しか書けなくなる懸念がある。
とはいえ、これらはすでにビジネス系インフルエンサーを含む「推し活」の世界ではお馴染みの光景だ。『WIRED』誌の創刊編集長で作家のケヴィン・ケリーは、クリエイターとして生計を立てるには、何百万人もの顧客やクライアント、ファンは必要ないとし、「数千人の真のファンがいれば十分」と明言したことでよく知られている。
これは近代的な「啓蒙モデル」経済から、中世的な「食客モデル」経済への部分的な回帰といえる。「貴族への奉仕」から「数千人の真のファンへの奉仕」にシフトしただけと考えれば、いわゆるマス(大衆)を意識したところからの「育てる」発想は不要となり、特定のパトロンの顔色さえうかがっていればいいということになるだろう。
