私は美術館に行くぐらいなら歯医者に行くほうがましだと思っていて、後で友人たちがスキー場で撮った写真を見たときに涙が出ても、お構いなしだ。私は自分の人間関係を個人的な好みに優先させる選択をすることで自主性を示したというわけだ。
ある意味で、デシとライアンのアプローチは完璧に筋が通っている。私は自分で好きなように選べたのだから(誰かが私を縛り上げ、手枷[てかせ]足枷[あしかせ]をはめてルーヴルの中を引き回したわけではない)。
だがこの見方は、私の決定が自主性への欲求ではなくつながりへの欲求に基づいている事実を無視している。それどころか、この筋書きでは、私はつながりのために自主性を犠牲にしたので、この犠牲を自主的に行ったというのは理に適わない。
そのうえ彼らは理論を構築するときに、自分自身の意志を行使しているという内的な感覚を重視することで、そもそも自主性への欲求を人間が進化させる原因となった外的な要因を見落としている。
自主性への欲求は、意志の力や自由意志を行使しているという感覚を私に与えるために進化したわけではない。私たちが最も有望だと見なす機会を追求し、それによって、自分が能力を発揮できる領域を見つけるように私たちを動機づけるために進化したのだ。
友人がいなければ成功も虚しい
自己決定理論は、動機づけを理解しようとする心理学者の間で支配的な見方なので、私たちのほとんどは、自主性とつながりを両立可能なものと見るようになった。そしてその立場のせいで、本来なら明白なはずのことが不明瞭になっている。
それは、自主性を重視する生活様式に移行したために、私たちの人生のバランスを保っているつながりを、図らずも、だが必然的に犠牲にしてしまったという事実だ。
まさに現代社会を特徴づける原動力である、つながりのない自主性は、私が「悲しい成功物語」と呼ぶものを生み出す。
その物語の登場人物たちは、物事を達成しても分かち合う緊密な友人のネットワークを持たないので、自分の実績が空虚で不満足なものに感じられてしまう。
自主性とつながりは互いに支え合うという、この誤った考え方のせいで、両者につき物の緊張関係から生じるさまざまな問題がしばしば見過ごされたり誤解されたりする。
(翻訳:柴田裕之)


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