「先生が健康で幸せでなければ子どもたちの変化に気づけない」
OECD(経済協力開発機構)の「Learning Compass2030」において世界共通の教育目標として掲げられた「ウェルビーイング」。2023年~27年度の教育施策の基盤となる「次期教育振興基本計画」の答申においても大きな柱として掲げられており、「身体的・精神的・社会的に良い状態にあること。短期的な幸福のみならず、生きがいや人生の意義などの将来にわたる持続的な幸福を含む概念」と説明されている。
ウェルビーイングは科学的な研究や分析も世界各地で行われており、そうしたエビデンスをいち早く活用しているのが、埼玉県上尾市立平方北小学校校長の中島晴美氏だ。同校に着任した2020年度から、ウェルビーイングを学校経営に取り入れ始めた。学校運営協議会の助言もあり21年度からは学校経営方針として掲げ、本格的に取り組んでいる。その理由について、中島氏はこう話す。
「ウェルビーイングの向上が、学校教育目標に近づく第一歩だと考えるからです。先生たちが健康で幸せでなければ子どもたちの小さな変化にも気づけません。子どもたちの幸せのためには、職場のウェルビーイングが大切なのです。実は私自身、子育てをしながら教員を続ける中で、忙しさのあまり『余裕があれば自分らしさを出せたのに』と苦しんだ時期があり、当時の私のような先生をつくってはいけないという思いが根底にあります。先生たちが日々幸せで、たとえ苦しいことがあっても耐えうるような安心できる職場を、校長は考えなければいけないと思うのです」
中島氏は小学校教諭を経て市教育センターの教育相談担当になった際、心理学やカウンセリング、ポジティブ心理学などを学ぶ中で、ウェルビーイングという概念に出合った。
「私が外部の学びの場に参加し始めた頃は企業の人ばかりでしたが、病休や退職の多い教育界にこそウェルビーイングは必要だと思いました。そんな私が現場の管理職になったのですから、幸せな職場づくりは使命であると考えています」
また、中島氏が同校の校長に着任したのは、コロナ禍が始まった20年度だ。休校になって人とのつながりに危機感を覚えたこと、同年9月に発表されたユニセフの報告書に衝撃を受けたことなど、ウェルビーイングの重要性を改めて感じる出来事も続いた。
「ユニセフによると、日本の子どもの精神的幸福度が38カ国中37位で、自殺率の高さも指摘されており、学校現場のあり方が問われていると感じました。メタ認知やレジリエンスの強化などの『Education For Well-being』が教育課程に組み込まれている欧米諸国のように、学術的・科学的な知見に基づく『心を整える方法』を先生や子どもたちに伝えたいという思いも強くしました」
導入した「SPIRE理論・幸福4因子・心理的安全性」とは?
具体的に、どのようなウェルビーイングの知見を学校経営に取り入れているのだろうか。
「1つは、ウェルビーイング研究で知られるタル・ベン・シャハー博士の『SPIRE理論』です。これは脳科学、医学、宗教学、心理学などの膨大な学術的な研究やデータを基にウェルビーイングを5つ(下図参照)に分類したもの。この5つが、幸せに必要な要素だといいます」
P Physical Well-being(心身的ウェルビーイング)
I Intellectual Well-being(知性的ウェルビーイング)
R Relational Well-being(人間関係的ウェルビーイング)
E Emotional Well-being(感情的ウェルビーイング)
もう1つの知見は、幸福学の研究者である慶応大学大学院の前野隆司教授の「幸福4因子モデル」だ。
「幸せは、『やってみよう!』(自己実現と成長の因子)、『ありがとう!』(つながりと感謝の因子)、『なんとかなる!』(前向きと楽観の因子)、『ありのままに!』(独立と自分らしさの因子)の4つの因子を意識することでコントロールできるという理論です。これはウェルビーイングを高めるための心のあり方ともいえます。実は本校には、私が着任する前から、幸せのシンボルである四つ葉の校章から発想した『ひらっきー』というキャラクターがありました。これは運命だと思い、とくに児童には、ひらっきーの背中にある四つ葉のクローバーに『幸福4因子』を当てはめて伝えています」
では、このSPIRE理論と幸福4因子モデルをどう使うのだろうか。
「『SPIREを実現するために幸福4因子のどれを意識すればいいか』と考えると自分の心を客観視できます。例えば、『P(心身的ウェルビーイング)を高めよう』と考えた本校の若手教員は、幸福4因子モデルの『やってみよう!』という気持ちで朝活陸上部と称して体力づくりを始めました。自転車通勤を始めた教員もいます。また、子どもたちのウェルビーイングを考えた授業づくりの指標としても活用できます」
同校では心理的安全性の研究で定評のある石井遼介氏の組織づくりも参考にしているという。
「石井氏によると、日本版心理的安全性を支えるのが①話しやすさ、②助け合い、③挑戦、④新奇歓迎だそうです。本校ではこの4因子の大切さを全職員で共有することで、なれ合いや同調圧力に陥ることなく、健全に意見を出し合える環境が保たれています。例えば、若手の意見が尊重され、本校ではICT活用もどんどん進んでいます。学校を大きな船に例えると、教職員や児童は乗組員であり、校長は船長。校長の仕事は波を読んでみんなが同じ方向に進みやすくすることですが、強制するのではなく、一人ひとりが納得できるよう対話を重ねる必要があります。その際、学術的、科学的な根拠に基づいた知見を使って説明すると、教職員も納得しやすくなると感じています」
自分の強みを理解し、心理的安全性を実感する教員が9割超
ウェルビーイングの知見を共有することで、教員は具体的にどう変化したのか。前述のようにSPIREのP(心身的ウェルビーイング)の向上を目指す教員が増えるほか、「I(知性的ウェルビーイング)やS(精神的ウェルビーイング)を高めようと自主的に勉強会や研修会を行うようになりました」と中島氏は話す。
また、「児童にとってのE(感情的ウェルビーイング)を高める授業や活動とは」「先生がしゃべりっぱなしの授業では児童のS(精神的ウェルビーイング)は下がってしまう」といった視点で授業について考えるようになったという。「『こういうことをやらせてください』と言う先生が増えましたね。SPIREは学校経営だけでなく学級経営の指標にもなっています」と、中島氏は語る。
同校の教職員を対象としたアンケート調査では、「今年1年自身のウェルビーイングが上がったと思う」という問いに「そう思う」と回答した割合が、2021年12月の調査では85%だったところ、22年10月の調査では95%へと上昇した。
また、22年度は95%が「自分の教職・職務における強みを理解している」、90%が「自分の教職・職務における強みを発揮できている」と回答。
「職員室で心理的安全性を実感している」という質問も、「そう思う」と答えた教職員の割合は、21年度の78%から22年度は90.5%へと上昇している。ちなみに、「あまりそう思わない」と答えたのは職員室を訪れる機会のない給食調理員だった。
ウェルビーイングの考えに基づき細かい業務改善も進め、教員たちは定時帰宅や平日の計画年休の取得がしやすくなり、ワーク・ライフ・バランスも向上しているという。
教員の変化により子どもが主体的になり、発話も増加
教員の変化は子どもたちにはどう影響しているのだろうか。中島氏は、「先生から児童への言葉がけが変化し、児童からの『やってみよう!』も増えました」と話す。
その様子はオンライン取材中にも垣間見えた。「体育館で長縄跳びをするので、ぜひ一緒にやりましょう」と呼びかける校内放送が聞こえてきたのだが、中島氏によれば、これは6年生が「学校全体で遊びたい!」と企画したものなのだという。
「先週は1〜2年生と一緒に遊んだので、今週は3〜4年生を誘っているようです。このほかにも児童から『思いやり週間をもっとやりたい!』という希望があり、延長しました。先生たちが主体的に動くようになったら、児童たちも主体的に動くようになり発話が増え、『間違えてもいいじゃん! 頑張ろう』と学びに向かう姿勢も変わりました。県・市の学力状況調査で学力を伸ばした5・6年生が増えたのも、こうした変化によるところが大きいと感じています」
前述のアンケート調査でも100%が「今年1年子どもたちのウェルビーイングは上がったと思う」と答えており、教職員も子どもたちの主体性の変化を実感しているようだ。現在、遅刻や不登校はほとんどなく、朝食摂取率も上がったという。
「今までの学校教育は競争させることで力を引き出そうとして、振り落とされる人がいました。しかし、幸せを感じれば人間は力を発揮できるのです。私は先生も子どもも輝ける学校を本気でつくりたいと思っており、そのことを通じて教員がすてきな職業だということも広く伝えていきたい」と中島氏は語る。
保護者の理解や地域との連携も進み、夏の草取りボランティアも2021年度の75名から22年度は165名以上と倍以上の人が参加してくれるようになった。学校は毎年人が入れ替わり、校長も任期があるため、こうした連携の継続は難しい面があるが、「もし私が離れても先生たちがウェルビーイングな学校づくりを続けると言ってくれているのがうれしいですね」と、中島氏は笑う。
幸せは人によって基準も感覚も異なるものだが、教員と子どもが幸せを感じられる学校をつくりたいと願っている教育関係者は多いはず。「次期教育振興基本計画」の答申においてもコンセプトとしてウェルビーイングが位置づけられた今、同校のようにエビデンスに基づいた「ウェルビーイングな学校づくり」は、今後の学校教育を考えるうえで大きなヒントになるのではないだろうか。
(文:吉田渓、写真:埼玉県上尾市立平方北小学校提供)