天正12年(1584)3月6日、織田信雄(信長次男)は伊勢長島城において羽柴秀吉との関係維持につとめてきた重臣(津川雄光・岡田重孝・浅井長時)を殺害します。それは徳川家康と示し合わせてのものでした。
信雄は家康と組み、自身を蔑ろにして事実上の「天下人」として振る舞おうとする秀吉と対決することを、前述の重臣殺害によって示したのです。
重臣殺害後、家康はすぐに宿老の酒井忠次を伊勢長島に遣わし、自身もすぐに出陣して信雄と尾張国清須城で面会しています(3月13日)。
織田家諸将は秀吉に加勢
一方で、秀吉は紀伊国の敵対勢力(雑賀一揆や根来寺)の討滅を企図していましたが、紀州方面への出陣を取りやめ、信雄・家康討伐を優先させました。
3月8日には尾張・伊勢への進軍準備を開始しています。そして翌日には先陣を出陣させているので、秀吉側の対応も素早いものと言えるでしょう。
秀吉は大坂城を出て、28日に尾張・楽田城に着陣しました。
丹羽長秀や池田恒興ら多くの織田家諸将は、秀吉に加勢することになります。織田家当主の信雄ではなく、秀吉に加勢するほうが安泰であると多くの諸将が認識していたということです。
それを裏付けるかのように秀吉方有利の状況が展開していきます。


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