天正11年(1583)4月、羽柴秀吉は越前の柴田勝家を滅亡に追い込みますが、その後は、当主として擁立した織田信雄(信長次男)と対立を深めていきます。
亡き主君・信長の1周忌法要を独自に執り行い、信雄の意向を仰がずに自らの判断で天下の政務を執ろうとする秀吉。
実質的な天下人として秀吉が振る舞おうとしたことは、当然、信雄との関係に亀裂を生じさせます。
徳川家康の家臣・松平家忠が著した日記に『家忠日記』がありますが、その天正11年(1583)11月20日条には「小田三介殿」(織田信雄)が上方で「御腹めされ」た(切腹した)との風聞があるとの物騒な内容が書かれています。
これは信雄が秀吉に切腹させられたとの噂話が東海地方にまで流れていたことを示すものですが、秀吉と信雄の関係がそこまで険悪化していたことがうかがえます。
信雄と秀吉が対立したきっかけ
しかし両者はまだ激突するまでには至っていません。両者が決裂するのは翌年の天正12年(1584)3月の1つの事件が契機となります。
同年3月6日、信雄は秀吉への取次を担っていた家老の津川雄光(義冬)・岡田重孝、重臣・浅井長時を伊勢長島城にて誅殺したのです。
信雄と秀吉の関係がそれまで決裂に至らなかったのは、津川雄光や岡田重孝らの役割が大きかったとされています。
秀吉と交流のあった自らの重臣を殺害してしまったのだから、それは秀吉との「関係断絶」(手切れ)と対決を意味しました。


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