天正11年(1583)4月、賤ヶ岳の戦い(滋賀県長浜市)において羽柴秀吉軍は柴田勝家軍を打ち破ります。
戦いに敗れた勝家は越前国に敗走、居城の北庄城(福井県福井市)に籠もりました。
一方で賤ヶ岳の戦いで勝利した秀吉は勝家の与力衆であった前田利家らを降伏させた後で、北庄城に進軍し、これを攻囲します。
秀吉軍が勝家の居城に火を放つ
『太閤記』(江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が著した秀吉の一代記)には、秀吉方の先陣は城を包囲し、一斉に火を放ったとあります。このため、煙は天に満ち、周囲は暗闇になったとのことです。
ちなみに『天正記』(秀吉に御伽衆として仕えた大村由己が著した秀吉の伝記・軍記)には、北庄城には「兵三千余人」が籠城していたとあります。
『天正記』には火攻めのことは記されておらず「総構へ即時に乗り破り」「千急万速の攻めをなす」とあり、秀吉軍が急ぎ城を攻め落とそうとしていることが記述されています。
さて『太閤記』には火攻めにより、辺りが暗闇になったことを幸いとし、秀吉軍が本城の塀際まで押し寄せたとあります。城からは鉄砲が撃たれますが、それに無駄玉はなかったとのこと。これをもってして『太閤記』は勝家を「名将」と評価しています。
しかし、勝家の子・権六と佐久間盛政が秀吉方に捕縛されたとの知らせが入ると、城中は意気消沈。鉄砲を盛んに撃ちかけてくることはなくなったようです。


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