天正10年(1582)10月15日、羽柴秀吉は亡き主君・織田信長の葬儀を京都の大徳寺において執り行いました。
葬儀の喪主は信長の5男で秀吉の養子・秀勝であり、織田信雄(信長次男)や織田信孝(信長3男)ではありませんでした。信雄と信孝が織田政権での主導権を巡り対立を深めるなか、秀吉は葬儀を執り行うことで、政権内の主導権を握ろうとしたのです。
清須会議の新たな体制は早くも分裂
三法師(信長の嫡孫)を擁する信孝は柴田勝家や滝川一益らと結び付いていく一方で、秀吉とそれに与する丹羽長秀・池田恒興らは信雄を織田家当主として擁立します。
清須会議(同年6月27日)により新たな織田体制(三法師を当主とする織田家宿老の集団指導体制)を構築したかに見えましたが、それは早くも分裂したのです。
同年12月、両陣営はついに軍事的に衝突します。秀吉は信孝から三法師を奪還し、信雄を安土城に迎えることを名目にして、美濃国と近江国に侵攻しました。
信孝は美濃国を領有し、近江の長浜は柴田勝家領でした。秀吉軍は近江長浜領に進軍し、長浜城を包囲します。長浜城を守備したのは勝家の甥・柴田勝豊でした。しかし勝豊は病であったので、秀吉方にすぐに降伏します。
ちなみに『太閤記』(江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が著した秀吉の一代記)には勝豊は勝家に深い恨みを抱いていたため降伏したとあります。


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