長浜制圧後、秀吉軍は美濃国に向かいました。この時、秀吉の弟・秀長は近江の佐和山城(滋賀県彦根市)で後詰め(後方に控える援軍)として配置されます。佐和山城は秀吉が美濃に進軍するにあたって、重要拠点でした。よって秀長を置いたのでしょう。
秀吉は美濃に攻め込み、信孝の本拠・岐阜城を包囲します。信孝の頼みの綱とも言うべき柴田勝家は深雪もあり、越前国で足止めされていました。
信孝は不利を悟り、あっさり秀吉に和睦を願い出ます。信孝は人質(母と娘)を差し出したのみならず、三法師を手放しました。秀吉は信孝から三法師を奪うことに成功したのです。
明けて天正11年(1583)1月、織田信雄は近江の安土城に入ります。信雄は三法師の名代として織田家当主となったのでした。
秀吉の攻撃を受け柴田勝家も動く
当主・信雄とそれを補佐する秀吉・丹羽長秀・池田恒興という布陣で織田政権の運営が進められることになったのです。当然、信孝派の柴田勝家や滝川一益はそれに不満を持ちます。
同年2月、秀吉軍は滝川征伐のため北伊勢に侵攻し、亀山城・峯城・国府城などを攻撃しました。
秀吉の攻勢を受け、越前の柴田勝家もついに動きます。勝家が連携を模索していたのが、西国の大名で足利義昭(室町幕府15代将軍)を擁する毛利輝元でした。勝家は毛利氏に出兵を促し、秀吉を牽制しようとしたのです。しかし毛利氏が動くことはありませんでした。
勝家軍の北近江への進軍を受けて、3月に秀吉もまた北伊勢から近江に向かいます。
秀吉軍は木之本(滋賀県長浜市)に着陣し、勝家軍と対峙しましたが、すぐに戦端が開かれることはありませんでした。4月中旬、秀吉に屈服していた織田信孝が再び挙兵します。秀吉はかつて差し出されていた信孝の人質を処刑しました。
信孝挙兵を受けて、秀吉はすぐに美濃国大垣城に向かいます(4月16日)。秀吉が美濃に向かったのを好機として、勝家方が攻撃を仕掛けてきます。
4月20日、柴田方の佐久間盛政が羽柴方の軍勢を攻撃。大岩山を守っていた羽柴方の中川清秀は戦死します。秀長の木之本の陣も攻撃を受けますが、これを守り抜くことに成功しました。
柴田軍の攻勢を聞いた秀吉は急ぎ美濃から木之本に戻ります。この時、秀吉軍は約5時間で50キロメートルを走破したものとされますが(美濃大返し)、それは「現実的に不可能」との見解もあります。


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