ちなみに『太閤記』(江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が著した秀吉の一代記)にも信雄による重臣殺害の記述があります。
同書には津川雄光・岡田重孝・浅井長時の3人は、長島城内にて殺害されたとのこと。この3人は武略を備えた者だったので秀吉が目をかけていたようです。
ところが信雄の信任を得たい近習にとっては、それは目障りでした。
よって3人には信雄に「逆意」(謀叛心)があると触れ回ったのです。それで信雄は3人の重臣を殺害したというのです。
また同書はこの3人が秀吉に従う姿勢を示したため、信雄は彼らに切腹を命じたとも書いています。
信雄が秀吉に対抗するために手を結んだのが、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河国などを領していた大名・徳川家康でした。先の重臣殺害も家康と相談したうえでのことだったとされます。
信雄が3人の重臣を殺害すると(3月6日)、家康は同月7日に浜松を出陣し、尾張国に進軍、13日には清須城で信雄と対面しています。
この素早い家康の動きは事前に信雄と協議していたからこそできることでしょう。
『太閤記』には信雄は家康のみならず、池田恒興や森長可にも助勢してほしいと書状でお願いしたとあります。
それに対し、家康は同心する旨、懇ろに返答したとのこと。池田と森のもとには秀吉からも助勢してほしいとの要請が届きました。
信雄と秀吉どちらにつく?悩む池田恒興
池田恒興は織田信長の厚恩を受けていたこともあり「信雄卿にお味方せねばなるまい」と考えて、そのことを自らの家臣である片桐半右衛門に伝えます。
片桐はそれに対し「ぜひ、そうして頂きたい。それが理の当然と言えるでしょう」と賛意を示しました。
ところが同じ池田家の家臣・伊木忠次は「秀吉の近年の立身を見聞するに諸大名を束にしても秀吉の武略には敵いません。この先、天下の権力を握るのは秀吉にございます。よって願わくば秀吉に与し、立身され、ご先祖を祀られ、長年仕えてきた家臣にも報いることが宜しいのでは」と片桐とは真反対の意見を述べます。
恒興は伊木の諫言ももっともと思い「身体が2つあれば」と思い悩んだとのこと。
そうしたときに秀吉から「(恒興が)美濃・尾張・三河の3ヶ国を領有されるように。このことに相違ない」との起請文が届きます。


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