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キャリア・教育 #戦国最強の兄弟の軌跡

「もうダメかもしれない」《長久手の戦い》で敗北した秀吉、そんな兄の窮地を救った弟・秀長の"凄すぎた貢献"

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小牧・長久手の戦いの緒戦となった 尾張国「岩崎城」(写真: kumayosi / PIXTA)
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3月13日には秀吉方の池田恒興・元助父子と森長可(池田恒興の娘婿)が犬山城(愛知県犬山市)を攻略しました。

信雄と家康は伊勢方面への備えを固めていたのですが、犬山城を落とされたことによって、尾張国の北部の備えも必要になります。

そこで家康は尾張国の小牧山(愛知県小牧市)に目を付け、秀吉方に対抗しようとします。

3月17日には徳川方の酒井忠次と秀吉方の池田・森の軍勢が羽黒(犬山市)で衝突し、徳川方が勝利しました(羽黒の戦い)。

秀吉方の軍勢を破った家康は小牧山城に信雄を迎えます。

秀長は伊勢松ヶ島城の攻略を任された

ちなみに秀吉の弟・秀長は兄と行動を共にしていませんでした。秀長は伊勢松ヶ島城(松阪市)の攻略などを任されていたのです。

松ヶ島城の城主は滝川雄利(信雄の家老)でした。3月下旬から同城への攻撃が始まりますが、4月7日までには大勢決し、城側から降伏を申し出るまでになります。秀長らは2万4、5000の大軍を率いていたので、籠城方は抗しきれなかったのです。

松ヶ島城攻略が確定すると、秀吉は秀長らの軍勢を尾張国に向かわせます。

4月8日には松ヶ島城を出て、2日後には近江国日野に向かい、その後、美濃国から尾張国に向かったのです。

秀長の軍勢が尾張に着陣したのは4月11日のことでした。秀長軍の尾張楽田への着陣は羽柴方の士卒の士気を回復させたとのこと。それというのも、秀長が着陣する以前の4月9日、羽柴方の軍勢は信雄・家康方の軍勢と交戦し、敗北していたからです。

事の起こりは『太閤記』(江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が著した秀吉の一代記)によると、池田恒興が秀吉の本陣を訪れ、三河国に出兵することを献策したことにありました。

秀吉はこの献策を受け入れて、三好信吉(後の豊臣秀次)を総大将とする軍勢2万4000を三河に進軍させます(4月6日)。それには池田恒興・元助、森長可も従軍していました。

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