小牧山の敵軍は日増しにその数を増しているので、三河国には敵の兵力は少ないに違いない。その隙に敵方の三河を攻撃すれば、敵は小牧山を守備することはできなくなるであろうとの計算から出兵したのです。
ところがこの秀吉方の動きは徳川方に察知されていました。
信雄と家康方の軍勢は4月8日夜には小牧山城を出陣します。その頃、信吉らの軍勢は敵方の岩崎城(愛知県日進市)を攻囲し、これを攻略していました。そして翌4月9日には、徳川方と信吉方の軍勢が交戦、信吉方が敗北を喫します(長久手の戦い)。
この戦いにおいて池田恒興・元助親子、森長可が戦死しました。
追い込まれる信雄・家康軍
長久手の戦いの敗北があったので、羽柴方の士卒は秀長の軍勢が尾張国に着陣すると「快気」(江戸時代初期の史書『当代記』)の状態になったのです。
同書には秀長や筒井順慶らの軍勢2万余騎が秀吉の陣所に着陣したとあります。
その後も秀吉と信雄・家康の間では各所で抗争が続くことになります。しかし戦いが長期化するにつれ、軍勢数で勝る秀吉軍に信雄・家康方は追い込まれていくのでした。
(主要参考文献一覧)
・黒田基樹『羽柴秀長の生涯』(平凡社、2025年)
・柴裕之『秀吉と秀長「豊臣兄弟」の天下一統』(NHK出版新書、2025年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)


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