無料の個別指導塾、目指すのは「都立高校の合格」

新学期を目前にした春休みの夜。雨が降る中、八王子駅からほど近いビルの1室に人が集まってきた。その数、15名。そのうち8人が新中学3年生、1人が高校1年生で、残りの6人は彼らを教える講師だ。

ここは、創設12年目となる八王子つばめ塾(以下:つばめ塾)の八王子駅前教室。1人の講師が生徒2人を教える体制で、英語と数学の個別指導を行っている。

19時になると、つばめ塾の創設者である小宮位之氏が全員にこう呼びかけた。「では、グッドニュースから始めましょうか」。

八王子駅前教室は、地元の寺が所有するビルの一室を借りている(上)、「今週のグッドニュース」を共有する講師と生徒(左下)、授業に集中する生徒たち(右下)

つばめ塾では、授業を始める前に、講師と生徒がその週にあったよいことについて語り合う時間を取っている。スマホの風景写真を一緒にのぞきこみ、笑顔で話す講師と生徒もいた。その後、学習に入ると、教える側も教わる側も、真剣そのものだ。

個別指導の学習塾は今や珍しくないが、つばめ塾が一般的な学習塾と違うのは、無料であること。講師はすべてボランティアだ。この日は難関大学の学生や大手企業の会社員、薬剤師など、年代も肩書もさまざまなボランティア講師が教えていた。

「入塾条件は3つで、家庭が経済的に苦しいこと、ほかの有料塾や家庭教師に教わっていないこと、本人にここで勉強したいという意欲があること。いわば、本人のやる気が月謝なのです」と、小宮氏は言う。

つばめ塾にはこの八王子駅前教室に加えて、南大沢教室と北野教室がある。例年、約40名のボランティア講師の支援を受けて、約25名の生徒がこの3つの教室で学ぶ。どの生徒も、英語と数学を週1日ずつ受講できるようにしている。

つばめ塾には中高生が通っているが、主な塾生は中学3年生だ。生徒のニーズに合わせてボランティア講師の数を増やすことは難しく、受け入れ可能な生徒数には限りがあるため、受験生を優先している。目指すのは、都立校の合格だ。

「ここで学ぶ生徒は経済的に厳しく、都立高校の単願しか選択肢がないという子がほとんど。だから、私たちは都立高校の受験対策に重点を置いた指導をしています。内申点が決まる中学3年生の秋までは、数学と英語の成績を1つでも上げることに全力を注ぎます。数学と英語の指導に絞っているのは、積み重ねが必要で、最もニーズが高い科目だからです。12月以降は入試対策に切り替え、冬休みに理科や社会の一斉授業を実施するほか、1月には推薦入試対策として面接の練習や作文指導を行います。2023年度は19人全員が都立高校に合格しました」

公的資金を受けずに「寄付だけ」で運営する理由

近年、自治体の受託事業として企業やNPOが無料の学習支援を行うケースが増えている。しかし、つばめ塾では国や自治体の助成金など、公的な資金はいっさい受けておらず、寄付のみで運営を行っている。その理由を小宮氏はこう説明する。

小宮 位之(こみや・たかゆき)
認定NPO法人八王子つばめ塾理事長
1977年東京都生まれ。都立南多摩高校卒業後、国学院大学文学部史学科に進学。大学卒業後、私立高校の非常勤講師(地理歴史)や映像制作の仕事を経て、2012年に八王子つばめ塾を設立。NPO法人化した2013年より現職。現在はNPO法人東京つばめ無料塾の理事長を兼任し、東京薬科大学と私立高校で非常勤講師を務める。著書に『「無料塾」という生き方 ― 教えているのは、希望。』(ソシム)
(写真:本人提供)

「私たちが目指す支援が自由にできなくなってしまうからです。例えば、自治体の受託事業として行う場合、場所や開塾の頻度を決められてしまうほか、受験支援はできないなど、指定された枠から外れることはできません。経済的に苦しい家庭の子に必要なのは、公立校の受験対策も含めた個別の学習支援です。公的資金を受けてしまうと、必要な学習支援ができなくなる可能性が高いのです」

公的資金を受けない理由はもう1つある。それは、学習以外の支援も行っているためだ。

「環境が不安定だと勉強どころではなくなりますから、子どもたちに最も必要なのは家庭の安定です。そればかりは私たちにはどうすることもできませんが、私自身が貧困家庭で育っており、少しでも経済的な支援があることが重要であると身に染みて理解しています。そこで、つばめ塾では『学習支援』『食料支援』『奨学金』の給付を3本柱として活動しているのです。この3つは偏ることなく、同じ割合で行っています」

つばめ塾では全国の農家や企業から寄付された米やパスタ、菓子などを生徒に配布している。昨年1年間で配布した米は2.2トンに上る。

「公的支援は公平が原則ですから、家庭の状況に応じて多く配るといったことはできませんが、私たちは子どもが多い家庭には多めにお米やお菓子を渡すことができます。また、つばめ塾では希望者に返済不要の奨学金を給付しています。中学生には塾に来る交通費を全額支給するほか参考書や問題集をプレゼント、高校生には月額3000円を支給。高校・大学に進学した際には教科書代として2万円を給付しています。こうした奨学金制度も公的支援を受けていると自由にできませんから、寄付のみで賄っているのです」

このようなあり方を小宮氏は、「教福中道」と独自の言葉で表現する。教育と福祉の両方を行っていくという意味が込められている。

貧困家庭に育ったからこそ「無料塾」にこだわる

今でこそ企業による寄付などもあり安定した運営ができているものの、立ち上げ当初のつばめ塾の財政は厳しい状況にあった。3人の子を持つ父である小宮氏は、正社員の仕事を手放してつばめ塾に専念してからは、自分自身が経済的に厳しい状況に陥ったという。

それでも無料塾にこだわるのは、小宮氏自身が経済的に苦しい家庭で育ったからだ。都立高校3年の時には、当時の授業料の月額1万1000円が支払えずに中退の危機に直面。奨学金を申請して卒業し、大学の入学金や授業料は母方の祖父母に頼み込んで何とか工面できたが、しばらくは教科書を購入できなかったという。

大学卒業時は就職氷河期で、教員採用試験に合格できず、私立高校で社会科の非常勤講師になった。しかし、収入が不安定なため、映像制作会社の正社員に転職。紛争地帯や東日本大震災などを取材する中、「人の役に立つことをしよう」と決意し、2012年に無料塾を立ち上げた。現在も東京薬科大学と私立高校の非常勤講師、病院でのアルバイト、講演料などで生計を立てながら無料塾の運営を続けている。

創設12年目となる今、小宮氏は、行政・学校・民間にはそれぞれにできることがあるという思いを強くしている。

厚生労働省の2021年調査によれば、子どもの貧困率は前回調査の14%から11.5%と改善傾向にあるものの、一方で大学進学率は57.7%と過去最高を記録し、家庭の経済状況による教育格差は拡大していることがうかがえる。

格差を埋めるために必要なことについて、小宮氏はこう語る。

「行政がやると効果的なのは一律一斉の支援なので、すべての子どもが平等に支援されるような政策を打ってほしいです。例えば、東京都は2024年4月から私立高校を含む高校授業料を実質無償化としましたが、本来なら高収入層に授業料の支援を広げるよりも、給食費無償化などのほうが優先度は高いはずです。また、東京都は都立学校の設置者なのですから、都立高校の改修や学びの充実にお金を使う必要があるのではないでしょうか」

学校教育でも少人数体制を進めるなど、より個別指導に近い形で、教育の質を担保すべきだと小宮氏は考えている。

「とはいえ、教員の業務は雑用も多く、保護者対応や事務など負担が大きすぎます。ソーシャルワーカーや弁護士、事務スタッフなど、教員以外の支援者も増やして負担を軽減させ、本来の仕事である子どもと向き合う時間を取れる体制にする必要があると思います。そのためにも、日本はもっと教育にお金をかけるべきではないでしょうか」

教育格差をなくすため各地に無料塾を

つばめ塾のこれまでの成果について、小宮氏はこう話す。

「ボランティア講師は、生徒にとって親でも先生でもない大人。そうした社会人との出会いは、経済的に苦しい家庭の子どもはとくに少なく、つばめ塾は貴重な場になっていると思います。中には、講師との関わりを通じて大学進学への意欲が芽生えた子や、英語を使う仕事に就きたいと考えるようになった子もいます。そんなふうに、つばめ塾は将来への種まきをする場所。それがいつどんな形で芽を出すかは、誰にもわかりませんが、これまで325人の子どもたちに種まきができたことこそが、つばめ塾の成果だと思っています」

無料塾の輪は広がっており、小宮氏が相談を受け、設立をサポートした無料塾は50を超える。

「これまでは八王子市を中心に展開していましたが、まだまだ無料塾がない地域もあります。それもまた教育格差につながると考え、つばめ塾の多拠点化を進めています。すでに東京都区部で活動する東京つばめ塾もありますが、大阪府枚方市でも枚方つばめ塾を開校しました。今後はさらにあちこちにつばめ塾をつくっていきたいと思います」

子どもの将来に大きな影響を及ぼす教育格差。解消に向けては子どもが安心して学べる環境の整備が必要であり、行政や学校とは別の民間だからこそできる無料塾ならではの支援は、今後さらに重要性が増していきそうだ。

(文:吉田渓、注記のない写真:編集部撮影)