全区立中学校で海外修学旅行は都内初

「公立中で海外に修学旅行に行くなんて、自分たちの時代では考えられなかった」
「私たち高齢者世代にお金を使ってほしい」
「うちの子は、海外旅行に行ったことがないが大丈夫か?」
「私立校にも補助を考えてほしい」

今年9月に「全区立中学校で来年度、海外修学旅行を実施する」と公表して以降、港区にはこんな声が寄せられているという。SNSなどでも「大賛成」「うらやましい」「さすが港区」、「費用が高すぎる」「お金のある港区だからできること」「地方ではできない」「自治体格差を感じる」など賛否両論で盛り上がった。

修学旅行先といえば今でも京都・奈良が定番だが、全区立中学校で海外に修学旅行に行くとなれば、港区が都内初。全国的に見ても、海外修学旅行を実施している学校は私立がほとんどだ(公益財団法人日本修学旅行協会「2019年度実施海外教育旅行の実態とまとめ」)。

港区では2024年度、区立中学校の3年生、全760名を対象に海外修学旅行を実施する。行き先はシンガポールで3泊5日、気になる費用は1人当たり約50万円を想定している。だが保護者負担は、これまで京都・奈良に2泊3日〜3泊4日で行っていた修学旅行費と同等の7万円ほどに抑え、それ以外の費用を公費で負担するという。

その額、5億1272万1千円。このたび10月6日の港区議会で、令和5年度の補正予算が可決され正式に承認された。今後も議会にていねいな情報共有を行いながら、効果的な実施について詳細をつめていく。

海外修学旅行の訪問国、台湾に次いでシンガポールが多い

公立中での海外修学旅行は前例が少ないだけに、さまざまな意見があるが、本当に大事なのは教育効果にあるのではないだろうか。そもそも港区は、なぜこのタイミングで区立中学校の海外修学旅行実施に踏み切るのか。その前提として港区には、これまで国際理解教育に長く注力してきた歴史がある。

まず2007年から、英語でのコミュニケーション能力育成の一環として「港区小中学生海外派遣」を行っている(コロナ禍は中止)。夏休みに9〜10日間でオーストラリアに行き、ホームステイや現地校での体験入学を通じて海外文化などを学ぶものだ。

対象は小学生40名、中学生40名のあわせて80名。参加するのに英語力は問わないが、区から費用補助もあるため人気のプログラムで、論文や自己PR動画などを提出して審査を受け、選ばれなければ参加することができない。

「もともとオーストラリアの海外派遣事業では“全員”連れて行くことができていないという思いが少なからずありました。国際理解教育を充実させるためにも、全員に経験してもらいたい、修学旅行ならばそれができると考えています」と話すのは港区教育委員会の篠﨑玲子氏だ。

具体的にどんな経験をしてもらいたいのか。これまで港区では、日常の学校の授業でも英語教育を充実させてきた。小学校では1年生から生活科の時間で週2時間「国際科」として英語を学ぶ。英語が教科として必修化される3年生からは、英語科にプラスして週1時間「英語科国際」という授業を設けている。各学校に専属で1〜3人のALT(外国語指導助手)も配置しており、通常の授業でもネイティブがいる環境で英語を学ぶことができるのも特徴だ。

「授業で培った英語でのコミュニケーション能力を元に、これまでも学校ごとに英語でのプレゼンや劇などを実施してきましたが、英語でのコミュニケーション能力を発揮する、また国際人育成事業の集大成として海外修学旅行の実施を決めました。行き先をシンガポールにしたのも、英語が公用語の1つになっていて英語を活用した体験ができるからです」

前述した公益財団法人日本修学旅行協会の調査によれば、海外修学旅行の訪問国の57.0%がアジア。いちばん多い台湾(25.2%)に次いでシンガポール(14.2%)が多く、マレーシア、ベトナム、その後にオーストラリア、ニュージーランドと続く。修学旅行で3泊5日程度で行くとなると日本から近いエリア、また費用面や治安などの安全性を考慮した結果と考えられるだろう。

(出所)日本修学旅行協会「教育旅行年報データブック2020」を基に東洋経済作成

実際に海外で、外国人を相手に英語で話してみて、伝われば大きな自信になるだろうし、伝わらなかったとしても貴重な体験になるに違いない。中学生が物おじせずに英語を話すことができるのかと不安にも思ってしまうが、英語力という点では港区は高いレベルにあるという。

「全国学力調査の結果では、もちろん全員ではないもののスピーキングを含めて平均をはるかに超えるよい結果が得られています。質問紙調査でも『将来海外で活躍したい』と答えている割合が高く、これまでの英語教育の成果と考えています」

まだ現段階では、現地での活動予定は未定だ。詳細は各学校で決めることになっているが、現地校の生徒との交流や、現地企業と連携したキャリア教育のほか、ダムや動物園、植物園などの観光を想定しているという。

教育格差や体験格差を埋めるが、自治体間の格差はどうする?

こうした現地でかかる費用や食事代について、保護者負担の7万円のほかに追加でかかる費用はないのか。

実際、区が保護者から徴収する負担金は一律5万円(食費、交通費〈航空機代・借り上げバス等〉、宿泊費等の一部)。残りの2万円は、区が徴収しないもののパスポートを所持してない場合の申請代のほか、外貨交換費用、グループ行動の際にかかる交通費等を見込んでいる。

そのほか追加でかかるとすれば、お土産代などのお小遣いぐらいだろう。また港区では経済的な理由で就学が困難な家庭に就学援助費を支給しており、就学旅行費や修学旅行支度金なども援助の対象となっている。

もう1つ気になるのが、修学旅行の行き先が海外になることで教員の負担が増えるのではないかということだ。だが教員の旅費も事業費に含まれており、子育てや介護で引率できない教員もいるとして、港区は引率教員についても慎重に検討していくとしている。

肝心の教育効果はいかほどか。3日間行ったところで英語は身に付かないといった声もあるが、「直接の体験でしか味わえないものがあります。日本とは違う環境に身をおいて学習したことを生かしてほしい。そうした機会を提供できればと考えています」と篠﨑氏は話す。

「生まれ」によって学力や最終学歴などの教育成果に差がある教育格差に加え、昨今では学校外での自然体験や社会体験、文化的体験に差が出る体験格差が話題となっている。そんな中、中学生という若い年齢で、公立に通う生徒に等しく海外に行く機会が提供されるのは、注目に値するのではないだろうか。

経済的な困難を抱える子どもを支援している公益社団法人チャンス・フォー・チルドレン代表理事の今井悠介氏は、こう話す。

今井 悠介(いまい・ゆうすけ)
公益社団法人チャンス・フォー・チルドレン代表理事
(写真:本人提供)

「通常なら海外に行けないような子たちが、修学旅行という学校のプログラムの中でいろいろな文化体験ができるのは歓迎すべきこと。もちろん、予算の妥当性を含め、中身について十分な検証が必要です。そのうえで、修学旅行に限りませんが、自治体が子どもの体験を豊かにしようと積極的に何かやっていくことがスタンダードになるのは大事な動きだと考えています」

このあたりは首長の思い入れなど、自治体の子育て世帯に対するスタンスが反映されやすい部分でもあるが、財政力によっては現実的にできないという自治体も多くあるだろう。

「格差があれば、それをなくす視点が必要ですが、できない自治体には国が支援をして全体としてどう底上げできるかがポイントになります。また、そもそも修学旅行という全員が参加するプログラムに、家庭が高額な費用を負担している現状にも目を向けるべき。就学援助は自治体によって基準が異なりますし、必要な支援が届かずに修学旅行を諦める子も実際います。コロナと物価高騰で食べるのにも困る家庭がある中で、公教育における家庭の負担をあらためて見直していく必要があるのではないでしょうか」

子どもたちの「学びの環境のあり方」の議論に

一方、修学旅行が単なる恒例行事になってしまっている学校も多いのではないか。今は「探究」という言葉を据えて、修学旅行の内容自体を積極的に見直している学校もある。

「だんだんと修学旅行の様子も変わってきています。単なる思い出づくりではなく、今回をきっかけに『子どもたちの学びの環境のあり方』について議論が進んでいくといいと考えています」

益川弘如(ますかわ・ひろゆき)
聖心女子大学 現代教養学部教育学科 教授
(写真:本人提供)

こう話すのは聖心女子大学・教授の益川弘如氏だ。学習科学・認知科学を専門とする益川氏は、教科学習主体で受験に焦点を当てた学びから脱却し、将来にわたって活躍する土台となり得る場として、海外教育旅行をうまく活用してはどうかと提案する。

「今はインターネットを通じて多くの情報を得られますが、実際に日本とは異なる文化圏に行って得られる体験はやはり貴重です。子どもたち自身が成長するというのはもちろんですが、多様な視点で世の中を俯瞰して見直すきっかけとなり、いろいろな学習にもつなげることができます。そういう機会をできるだけ早い段階に持たせてあげるのは、大人の役割として大事なのではないでしょうか」

それは主体的・対話的で深い学びの実現やGIGAスクール構想など、変わろうとしている日本の教育、だが簡単には変わらない学校教育を変えられる可能性も秘めているという。

「誰かから教わるのではなく、自分で主体的に学んで、いろいろな人と対話しながら課題を解決していくことが学びだという“学び方”を生徒が知ると同時に、こういう動きが増えていくと、先生たちの教育観ひいては社会全体が変わっていくと考えています」

そして有意義な修学旅行とするために、事前の学習活動を充実させるのはもちろんだが、「その後も総合的な学習の時間を活用して、地域の課題解決など何らかのアクションにつなげていけるといい」と益川氏は話す。

公立中で海外修学旅行を実施することについて賛否が出るのは当然だが、学習活動の一環として、まずはその中身について見直してみてはどうだろう。また、こうした探究的な学びは国内修学旅行でも決してできないわけではないが、これからの子どもたちに必要な教育を自治体間で差がなく実施するにはどうすればいいのか、前向きに議論が進むことを願いたい。

(編集部 細川めぐみ、写真:Fast&Slow / PIXTA)