アート教育における「身体性」とは

一口に「アート教育」と言っても、ほとんどの学校では、入学試験にあまり関係のない芸術系の科目は重視されない傾向にある。図工や美術の授業は造形表現と鑑賞が中心であり、その根底にある「身体性」を意識する機会はほとんどないようにも見える。近年注目される「STEM/STEAM教育」でも、日本では「A」=アートを除いたSTEM教育が取り入れられがちだ。

そもそも、なぜ図工や美術で身体性が問われるのか。身体性なら保健体育で事足りるのではと疑問に思う方もいるだろう。美術科教育を専門とする群馬大学共同教育学部教授の郡司明子氏は次のように語る。

郡司 明子(ぐんじ・あきこ)
群馬大学共同教育学部 教授(美術教育)
主な研究テーマは幼児教育(表現)、美術科教育、身体性を重視するアート教育
(写真:本人提供)

本来アートとは生きることの技法であり、自分と世界との対話・コミュニケーションです。例えば、モノと関わり、モノという他者の声を聴いて受け止めて、それをアウトプットする。その際の自分の内的なうごめきや、気づき、感情、思考など身体にまつわる発露を『身体性』と捉えています。

例えば、木を切るという身体的な行動において、私たちはのこぎりを介して木と対話をしています。のこぎりの刃の入れ方が理にかなっていなければ、木を切る音は不快なものになるでしょう。逆に、体の力を抜いて木目に沿って刃を入れることができれば、のこぎりは素直に動いてくれるはずです。自分の働きかけがそのまま返ってくる。これがモノと身体との対話です。

(資料:郡司氏提供)

実際に、図工の学習指導要領では、自分の感覚や行為が重視されています。身体性を重視したアート教育は、この延長線上にあるといえるでしょう。これは子どもたちが世界に対話的であろうとする志向や行為、構えを育成すると同時に、結果として根源的・能動的な学びを取り戻すことにもつながるのです」

郡司氏が身体性に興味を持ったのは、学生時代の創作ダンス部がきっかけだ。表現と身体の関係性に面白さと難しさを感じると同時に、自分の専門分野である美術制作や教育を重ね合わせればもっと面白くなるのではないかと、考えを深めるようになった。

「今の子どもたちは、身体を動かすといっても習い事の枠内に収まってしまうことが多い。自分で遊びを開発したり、自分の身体を通して『こうすればもっと面白い』と感じたりする機会は少ないと思います。図工や美術の授業も、与えられた材料や方法の枠内でこなすだけ。そうした枠から子どもたちを開放し、もっと軽やかに自身を発揮して探究する場をつくれないかと思い、『アート教育』のあり方を考えています」

図工・美術の授業で「うまい」は禁句

郡司氏は、図工・美術の授業は長きにわたり作品主義に陥っていると主張する。見栄えのよさや完成度の高さという表面的な美を求める教員も多い。一方で、身体的なアート教育では自分の目でよく見て、よく聞き、触り、においで感じ、そして味わうことで身体感覚を活性化させていく。その状況や作品に入り込んで真摯に向き合い、外部の世界(他者)を自分事と捉える中で生まれた「気づき」が起爆剤となり、それを誰かに伝えようと表現を考える過程でさらに新たな気づきが生まれる。このサイクルが重要なのだ。

(資料:郡司氏提供)

「私は、授業中の『うまい』という言葉はなくしたいと思っています。学習指導要領でも、成果物のうまさは求められていません。一度『うまくなければ表現する価値がない』と感じてしまえば、その子どもは表現に抵抗を感じたり、表現することを諦めてしまいます。先生方には、子どもがこだわりを持って取り組む姿を受け止めて、『うまい』という言葉によらない評価をしてほしいと思います。

そうして『こうあるべき』『こうすべき』を突破し、既成概念や当たり前を問い直すと、世界を新たな見方で捉えられるようになります。自分なりの見方に面白さや可能性を見いだして自発的に学習を進めることこそ『根源的で能動的な学び』であり、これが人生を“生きる技”にもなると考えています」

これからは「思考する」美術科教育へ

これからの美術科教育には、子どもが深く感じて思考し納得の下で活動することと、協同性(人との関係性)が欠かせないという。アウトプットのうまい下手ではなく、思考力を働かせてどのようにモノを見るかがカギだ。

「思考する美術科教育へシフトするには、形・色・質感といった造形性にとどまることなく、パフォーマンスという身体表現を含めた、想像して創造するための身体性を育成する必要があります」

その参考になるのが、「レッジョ・エミリア・アプローチ」という北イタリアの都市レッジョ・エミリア発祥の教育法だ。これは、100人の子どもがいたら、それぞれとの対話を通して、100通りの個性を引き出すことを目指すアプローチで、アート教育を起点に子どもの主体性を重視した活動を行っている。

「レッジョ・エミリア・アプローチは、メソッドではありません。『子どもは生まれながらにして市民である』という考えの下、子どもたちの声に耳を傾けて聴き入ることから始まります。子どもたちは『アトリエ』という実験的かつ創造的な環境で、身体性を重視したアート(探究)活動を行い、周りの人と一緒に世界が魅力に満ちていることを感じます。子どもたちの活動(探究)や成長の様子は、アートや教育の専門家、保護者らも対話に加わって観察し、プロジェクト的な学びのあり方を模索するのです」

「STEAM教育」の「A=アート」の重要性

このように、アート教育は子どもの能力を引き出すために用いられるが、では日本が見落としがちな「STEAM教育」の「A」=アートとはどのようなものなのか。

STEAM教育の『A』=アートの意義は、思考や志向の根源となる意欲を喚起することです。アート(審美性)は、人間の本能に働きかけて『なぜこんなにきれいなの?』『なぜこんなに不思議なの?』と科学的で論理的な思考へも導いてくれます。しかし残念なことに、日本のSTEAM教育における『A』=アートはその本質から外れており、アートを申し訳程度にこなすための、形式的な創作活動に陥りがちです」

(写真:梅谷秀司撮影)

アート教育は本来、学ぶことそのものの楽しさを感じるためのエクササイズと捉えるべきだろう。その意味で、アート教育はほかの教科にどのような影響を与えるのか。

アート教育は、遊びと学びを融合させて探究することの楽しさを教えてくれます。審美性や身体性にひも付く学び方や見方ができれば、学校はもっと楽しくなるし、発想も新しくなるはずです。苦しみながら勉強するのではなく、自分とモノ・他者との関係性の中で気づき・ひらめきを得たときに『わかる』という世界が開けます。そしてこのプロセスは、すべての教科に汎用性があります。むしろ、すべての教科がアート教育に根差して、世界の美しさ(魅力)にどう向き合うかという意欲から始まるべきだと考えています」

アート教育で「いま・ここ」の自分に出会い続ける

実際に郡司氏は、身体性を重視したアート教育で子どもたちが変わっていく現場を目撃してきた。

「子どもたちはもっと自然体でいいんです。不必要な『〜べき』『〜ねば』から解放され、『今あるそのままの自分』を見つめられれば、自他の多様性に気がつくことができます。そのためにはまず、軽やかに表現できるようになることです。完璧でなくてよいので、とにかくやってみる。手を動かし、モノと対話して、自分が感じることを探る。自分を出す、というよりは、他者との関係性の中で生まれる『いま・ここ』の唯一無二の自他に出会い続けること、そしてその新鮮さを感じるというイメージです」

最後に郡司氏が、日常の中で子どもに対して実践できるアート教育を教えてくれた。

「美術館をはじめ生活のあらゆる場面で、『どれが好き? なんで? どう思う?』と、子どもに感想を聞いてみてください。まずはとにかく子どもの話を聞いて、子どもに語ってもらうのです。そうしたら次に大人も、『私はこう見える、こう考えた』と語り、お互いに意見を述べ合うのです。子どもの考え方に、むしろ大人が触発されるかもしれませんが、そのほうが断然面白いですよね。

そして時には、自分がその対象(美術作品)になってみる。対象と同じポーズや表情をしてみて、初めて感じるものがあるかもしれません。美術館などのワークショップに参加してもよいでしょう。子どもたちの根源的で能動的な学びは、こうした体験から始まるのだと思います」

(資料:郡司氏提供)

(文:國貞文隆、注記のない写真:つむぎ / PIXTA)