「携帯電話1つで困り事を軽減」から始まった
魔法のプロジェクトでは、毎年テーマを設け、研究に協力してくれる学校や団体を募集している。研究計画が採択された学校や団体にはICT機器が貸し出されるほか、実践研究の担当者(教員や教育委員会の担当者など)向けのセミナーも用意されている。年度末には実践研究の成果を検証し、報告書を提出。その報告書は毎年Webで公開されているので、実践の参考にしている教員もいることだろう。
この取り組みが始まったのは2009年のこと。背景について、ディレクターを務めるソフトバンクCSR本部の佐藤里美氏はこう語る。
「きっかけは、東大先端研の中邑先生が関わっていらっしゃった障害のあるお子さんが、カメラなどの電子機器を使って自身の苦手な部分を補っているとお聞きしたことでした。当時のガラパゴス携帯にもカメラや録音、メールなどの機能が付いていたため、『携帯電話1つで、障害のある方のさまざまな困り事や困難を軽減できるのではないか』という仮説の下、検証をスタートしたのです」
iPadが登場した翌年の11年度以降は「タブレット端末を使って、困り事がある児童生徒の学習や教育をどう支えられるか」という実践研究にシフト。その後、ICT機器はさらに進化し、今ではiPad以外のさまざまなツールも実践研究に使われている。
これまで全国で計840の実践研究が行われてきた。例えば22年度は、知的障害と自閉症スペクトラム症の生徒に対し複数のアプリを使って学習や生活を支援するものや、盲学校4校がICTを活用した遠隔合同授業や「個別最適な学び、協働的な学び」を目指したもの、肢体不自由と知的障害のある生徒がApple Watchなどを活用して時間を意識した行動支援や体調管理をするものなど、49の実践研究が行われた。
プロジェクトが続く中、学校現場にも大きな変化があった。GIGAスクール構想の下、全国の小中学校に1人1台端末が整備されたのだ。佐藤氏はこの動きを喜ばしいことだと評価しながらも、個々の学びを保障する活用としては「まだ過渡期にある」と感じている。学校ではまだ、端末を壊さないことや管理しやすい使い方などが重視されがちだからだ。
「先生の号令や指示の下、1人1台端末を使う学校も多いですよね。それも1つの使い方ですが、一人ひとりの必要に応じて使えているかという点では疑問が残ります。例えば、文字を書くのが困難な子や板書に時間がかかる子は、文字入力を使ったり、板書をカメラ機能で撮影して写真を見本に書いたりすると楽になることがあり、それが『自分でできた』という実感につながることが魔法のプロジェクトでも明らかになっています。先生方には『ICT機器はその子の苦手や困難を補うもの』とご理解いただき、有効に使っていただけたらと思っています」
真の目標は「インクルーシブな教育環境」の実現
始動当初からプロジェクトに携わる東京大学先端科学技術研究センター シニアリサーチフェローの中邑賢龍氏も、ICTを活用した学びの保障には、教員の心構えが重要だと語る。
「これまで日本の特別支援教育の場では、『障害は治療すべきもの』という医療モデルの観点で反復訓練を重視する先生が多かった。しかし、懸命に練習しても上手に字が書けるようにならず卒業していく子もいます。でも、スマホを使えばあっという間に作文ができるのです。重要なのは、字を書くことではなく、知識を得て自ら学んでいくこと。まずは先生がそこに気づき、機械を使ってでも学び方を身に付けさせてあげなければと思うことが大切です」
知識やスキルも必要だ。とくにアクセシビリティー機能の活用は特別支援教育において必須だという。
「今のデバイスには音声入力や、キー入力の有効時間を遅らせるといったアクセシビリティー機能が備わっているので、例えば手の震えでキーボードがうまく打てない子も活用できます。こうした機能の知識や活用法を特別支援教育の場に広げられたこと、そして意欲的で優秀な先生が集まってコミュニティーをつくれたことも魔法のプロジェクトの大きな成果です」
しかし、目指すのは単なるICTの活用促進ではない。真の目標は「インクルーシブな教育環境の実現」だと中邑氏は強調する。
「例えば、特別支援学校の中でタブレット端末を使ってあいさつができるようになっても、実際にあいさつし合える多様な子どもたちが周囲にいなければ意味がありません。テクノロジーは操作の習得が目標ではなく、それを使って買い物や仕事、勉強、生活ができるようになることが重要なのです。魔法のプロジェクトでも、先生方にはその視点を忘れないでほしいといつも言っています。『テクノロジーを使って障害のある子が、ない子と同じスタート地点に立てる』ということは大前提であり、どんな子もその子に応じた教育を受けられるインクルーシブな環境と学校制度をつくれたらと考えています」
文部科学省もインクルーシブ教育システムの構築を推進しているが、2022年に国連から改善を求める勧告を受けた。なかなかうまく進まないのは、学校制度の問題が大きいと中邑氏は指摘する。
「現状、通常学級の先生が特別支援教育を学ぶ機会はほとんどなく、特別支援学校の先生も通常学級で行われている教科学習の指導ができません。現在の教員養成や学校運営はインクルーシブ教育が前提になっていないので、先生方は必要な専門知識を習得できていないのです。しかし、困り事は、障害者手帳を持っている人だけにあるのではなくスペクトラムな(境界線が明確ではない)ものなので、通常学級と特別支援教育の場をつなげる人材が必要です。例えば特別支援学校を改組し、特別支援の先生が地域の学校で重度障害の子を含む困り事のある子たちに授業をしながら、通常学級で学ぶ時間もコーディネートするという形は一つの手でしょう。ただ、その場合も知識や専門教育が必要になります」
不登校やギフテッドなどの増加が教育を変えていく
こうした背景もあり、今年度の魔法のプロジェクトのテーマは「インクルーシブ教育」だ。さらに、教員養成課程を持つ大学でアクセシビリティー機能の活用法などを教える出前授業も始めているという。
「本来はICT活用も大学の教育学部で教えるべきことですが、学校現場や教育委員会も学習指導要領に縛られており、予算や時間がなく研修にも盛り込まれにくい。だから民間の力を借りてこうした取り組みをしているのです。ちなみに私の研究室でも12月に『LEARN Teachers Academy』という先生向けの学びの場を立ち上げ、アクセシビリティー機能の活用やインクルーシブ教育の技術を無料で学べるコンテンツを公開するほか、奨学金を使える対面プログラムも予定しています」
学校が急速に変わることは難しいが、「変化の流れは来ている」と中邑氏は言う。
「不登校やギフテッドなど、従来の学校の枠組みから飛び出す子が増えてきましたが、この流れが外圧となり日本の教育を変えていくだろうと期待しています。現に不登校が増えて2017年には教育機会確保法が施行され、学校を離れても義務教育を受けられるようになりました。東京都もメタバースの学びの場を子どもたちに提供しようと動き始めています。こうした状況からも、ICTを活用してインクルーシブ教育を実現できる先生たちを増やしておかなければいけません」
「複数の学びの場」を保障すれば個別最適な学びは可能
では、インクルーシブ教育を可能にするために、ICTは具体的にどう活用すべきなのか。中邑氏はこう説明する。
「すべての子が一緒に学ぶフルインクルージョンの場をつくるには、全員が先生の言うことが理解できて読み書きができる状態が必要です。まずはICTを活用してそのレベルの実現から始めるべきです。例えば、話すことが難しい子はタブレット端末で書いたものをみんなに読んでもらえばいいし、聞くことに困難がある子はマイクとヘッドセットを使えばいい。読み・書きの困難もタブレット端末で補える。これらが当たり前になれば、特別支援教育が必要だった子だけではなく、通常学級の中で困り事があって不登校になっていたような子もサポートできるようになります」
そのうえで、複数の学びの場を持てることを保障すれば、すべての子の個別最適な学びは可能だと中邑氏は語る。
「例えば、ギフテッドの子が遠隔で学べる場をつくり、大学の授業や通常学級と行き来できるようにする。知的障害のある子は、教科学習が難しいので特別支援の場を保障しながら、実技系など参加できるものは通常学級で学ぶ。このように、全員が全部の授業を通常学級で受けるのではなく、学びの場を複数持てればうまくいくはず。学習管理システムの構築は必要ですが、それもすでに大学では整備されているので可能でしょう。教育機会確保法ができた今、やろうと思えばできることです」
魔法のプロジェクトが始まった当初は、重度重複障害や知的障害のある児童生徒の指導に携わる特別支援学校の教員が応募するケースが多かったが、近年では特別支援学級や通級、通常学級の教員からの応募が増えているほか、自治体単位での応募も増加しているという。
「ICT活用を学んだ先生が3割まで増えれば、きっと教育は変わります。自治体で好事例ができれば、まねしてくれるほかの自治体も増えるかもしれない。だからこそ、魔法のプロジェクトはまだまだ続けなければいけません」と中邑氏は言う。
佐藤氏も今後についてこう語る。
「ICTは個別最適な学びの提供に資するものです。しかし、合理的配慮が義務づけられているのに、ICTを利用した学びを認めてもらえないケースはまだまだ多く、そんな状況を早くなくしたいと思っています。AIをはじめテクノロジーの進化は激しいですが、今後も時代を捉えながら活動を進化させ、教員の方々が安心してICT活用に取り組んでいけるようにしていきたいと考えています」
(文:吉田渓、編集部 佐藤ちひろ、注記のない写真:ソフトバンク提供)