初心者から上級者まで学べる充実の中身

「慶応義塾大学AI・高度プログラミングコンソーシアム」(以下、AIC)は、同大学の学生なら誰でも無料でAIやプログラミングについて学べる機会を提供している。授業ではないので単位にはならないが、参加者が急増しているという。

春学期と秋学期で内容を変え、基礎から難易度の高いレベルまでカバーしたプログラムを展開するが、学びの支援は主に3つだ。1つ目は、「講習会」。図のように、機械学習や深層学習、量子コンピューターなど、レベル別にさまざまな講座を開いている。

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2021年度の講習会の内容。各講座とも週に1回、午後6時15分から90分の開講

リアルタイムで行う講座もあればオンデマンド配信もあり、企業協賛による講演会や勉強会もある。主に医学部の学生を対象とした「AI医療入門」や、女子学生限定でAIを活用したビジネスプランを競う「女子AI勉強会」など、ターゲットを明確にした講座も用意されている。

企業による講習会も。ビジネス最前線でのAI活用を紹介(左)。企業がAI画像認識装置を参加者に貸し出し、オンラインでハンズオン形式の勉強会を実施(右)

この講習会で学んだことを生かす場が、2つ目の「Webで簡単プログラミングチャレンジ」だ。これは配信されたPythonの問題を解いてアップロードすると自動採点され、参加者のランキング発表が行われるプログラミングのコンテスト。平日に毎日出題があり、月曜日から金曜日にかけて難易度が上がっていき、不定期で企業からの出題もある。上位者は景品がもらえるという。

3つ目は、身に付けた実力を試す場の提供だ。企業協賛によるアイデアソンやハッカソンなどのイベントを実施している。これまで、カシオ計算機の「モーションセンサーを用いた新アプリケーションの創出」、キオクシアの「半導体異常検出処理のための画像処理」など大きなコンテストも8回ほど開催してきた。

ビジネスアイデアコンテストの参加者たち

初年度の2019年度は、講習会は教室開催のため人数制限があったが、20年度からは新型コロナウイルスの影響ですべてオンライン開催になり、希望者は全員受講できるようになった。そんな背景もあり、講習会やイベントの延べ参加者数は春学期で比べると、19年度805名、20年度1153名、21年度2700名と右肩上がりに増えている。参加学生のメイン層は1年生と2年生で、とくに「AIのための初心者向けPython入門」や「深層学習入門」は参加人数が多く、初心者にも裾野が広がっていることがうかがえる。

学生が学生に教える組織にした訳とは?

かなり充実した内容だが、これらの企画運営や講師は学生が担当している。講習会の大枠の内容を設定するなど、大学側が全体の調整を図る部分もあるが、講師、相談員、イベントの企画実施および企業との打ち合わせ、サーバー管理などの実務はすべて学生が担っている。

同大学理工学部システムデザイン工学科准教授兼AIC代表の矢向高弘氏は、「講師が学生だと参加学生も質問しやすいのか、講習会の様子を見ていると、研究室の勉強会より熱心に取り組んでいるように感じます」と話す。昨今、時代の変化に対応すべくAIやプログラミングのカリキュラムを導入する大学も増えているが、なぜ「学生による学生のための活動」という形で教育を行っているのか。矢向氏は、次のように説明する。

矢向高弘(やこう・たかひろ)
慶応義塾大学AI・高度プログラミングコンソーシアム 代表。同大学理工学部システムデザイン工学科 准教授。博士(工学)

「近年、学生たちから『AIを学びたくても学ぶ場がない』という声が上がっていました。とくに本学は7割が文系のため、AIやプログラミングを学ぶ授業がない学生がほとんどです。そこで、文理問わず学べる場の創出を検討し始めました。しかし、AIを必要としない学生もいるため、各学部に授業を新設するのではなく、大学の中に専門学校のような組織をつくり、勉強したい学生が自由に参加できるほうが現実的ではと考えました」

そこでモデルにしたのが、「適塾」だ。同大学の創立者である福沢諭吉が入門し、後に塾頭となった私塾である。学びたい者が集い、スキルが上がった者は教える立場になるという同大伝統の「半学半教」の精神の起源は、この適塾にあるといわれる。

「当時、ちょうどAIの半学半教をやっていた学生がいたのです」と、矢向氏。その学生とは、現在AIC運営委員・技術統括責任者を務める、同大大学院理工学研究科開放環境科学専攻 後期博士課程2年の遠藤克浩氏だ。

遠藤克浩(えんどう・かつひろ)
慶応義塾大学AI・高度プログラミングコンソーシアム 運営委員・技術統括責任者。同大学大学院理工学研究科開放環境科学専攻 後期博士課程2年。IPA 2017年度未踏アドバンスト事業採択者、同18年度未踏ターゲット事業採択者。日本学術振興会 特別研究員DC2

遠藤氏は、学部4年生のときに、自主的にAIに興味のある仲間と共に勉強会を行っていた。身近な友達と始めた活動だが、やがて30人規模まで拡大。「彼の活動は大変評判がよく、これを広げればうまくいくと思いスカウトしました」と矢向氏は振り返る。

こうした経緯で、現塾長の伊藤公平氏と矢向氏、遠藤氏を中心にAICが発足。 日吉キャンパスと矢上キャンパスにプログラミングルームを設け、それぞれに高性能な計算サーバーと巨大な記憶装置も準備してスタートさせたが、こうした本格的な設備や運営の資金は国や大学からではなく、企業から集めている。

「先端的なAIの勉強をやるとなると、高価なコンピューターや設備が必要です。しかし、AICは研究ではなく教育なので成果を測りづらい。報告書の必要な助成金ではなく企業からの拠出金による運営を目指し、AICに賛同いただいた企業から1社当たり参加費として年間500万円をいただく形で活動しています」(矢向氏)

現在、会員企業はGoogleや大塚製薬、Sozo Venturesなど10社。提供資金から、組織運営を担当する学生のアルバイト代も賄っている。担当業務によって異なるが、最大時給は講師の2400円。現在、講師は理工学部の学生を中心に15人ほどおり、最近では医学部や文系の学生も参画するようになったという。「講師ができるほどの優秀な学生は外部で高給アルバイトが見つかるので、このくらい設定しないと確保できません」と、矢向氏は言う。

講師を担当した学生は、次年度のガイダンス会場で表彰

高度プログラミングで成果向上、運営人材も年々成長

実際、このように設備や教育の質に投資してきた効果は表れ始めている。例えば、高度なプログラミング技術の習得に力を入れている講習会「競技プログラミング勉強会」で成果が出てきた。勉強会では国際大学対抗学生プログラミングコンテスト「ICPC」の世界大会出場を目指しているが、この中の学生チームが、ICPCで19年度に国内33位だったところ、20年度には国内5位まで順位を上げたという。

そのほか、ある会員企業のアイデアソンで、「すぐに商品化できるレベルなので特許を取ったほうがいい」と言われるほどの優れたアイデアを提案した学生もいるそうだ。「そろそろAIとは縁のなかった学部や学科から、AIをテーマに卒論を書く学生も出てくるのでは」と、矢向氏は期待している。

遠藤氏によれば、組織運営を担う学生たちのレベルも年々上がっているという。「AIの知識や技術力が上がるだけでなく、何より人に教える力が身に付いています。AICの活動で養った『相手に伝える力』は、将来的に自分がやってきたことや今後やりたいことを説明する場面などで役立つはず」と話す。

遠藤氏自身も、AICを立ち上げる際、ゼロからつてをたどりながら運営を引き受けてくれる学生を集めていく中で同志と出会えたことが、財産になっているという。「就職など自分と異なる道を進んだ人とも、今も連絡を取り合い最新の技術動向などの情報交換をしています。ここで培った信頼関係は今後も役立つだろうと思います」と語る。

矢向氏も、この点は大きな成果だと感じている。

「日本の大学は海外の大学に比べ、ほかの学部や学科の学生とコミュニケーションを取る機会はほとんどありません。ふとした議論からアイデアが生まれることがあるため、いろんな分野の人が自然と議論できる場をつくるのはとても大事。それができたことがAICのすばらしい点であり、今後も大学は運営側の学生をサポートするとともにチームとしての成長を期待しています」

こうした運営側の優秀な学生や意欲的に学ぶ学生と接点を持てることは参加企業にとって大きなメリットに違いないが、「企業にもっと満足してもらうことが課題」と、矢向氏は話す。現在、企業が意識の高い学生と多く出会えるよう、コラボレーションイベントの選択肢を増やしているところだ。また、参加者は増えているものの、単位にならないこともあり途中で学びをやめてしまう学生がいる点も課題と捉えており、対策を講じていくという。

このほか、講習会の「AI医療入門」の充実にも力を入れ始めている。医学部の教員の要望を受け、IT企業出身の石川繁樹氏が、今年度からAICコーディネータ室長に就任するとともに「AI医療入門」のカリキュラムを企画することになった。

石川繁樹(いしかわ・しげき)
大手IT企業を経て、2021年度より慶応義塾大学AI・高度プログラミングコンソーシアム コーディネータ室長。同大学特任教授。博士(工学)

「今年度からはAIの適用が今後重要となる医学部の学生の参加を意図した内容にしています。春学期は、グローバル大手IT企業4社に医療分野の世界のAI活用事例を紹介してもらいましたが、秋学期は私と学生が、医療現場で適用されるAI技術の詳説や、法的・倫理的課題も含めて教えていく予定。薬学部や看護医療学部も聴講できるような内容にしていきます」(石川氏)

来年度からはこのプログラム内容を医学部の授業として活用、実施することも検討しているという。

「今はこのように教育の裾野を広げていくところに力点を置いていますが、いずれは研究レベルまで枠組みを広げていければと思っています」と、矢向氏は展望を語る。同大学ならではの半学半教によるAI・プログラミング教育が今後どのような発展を見せるのか、楽しみだ。

(文:編集チーム 佐藤ちひろ、写真はすべて慶応義塾大学提供)