4月は人事異動の季節。公立学校では、半分以上の教職員が入れ替わったというところもある。反面、多くの私立中学・高等学校では異動は少なく、同じところに何年も勤務する人も多い。
異動にはメリットとデメリットの両方があるので、これはどこかでちゃんと検証したいと思うが、まずメリットの1つは、新しい風を入れられることだろう。つまり、これまでの常識や前例、やり方にとらわれない人が加わったり、新しいアイデアが生まれやすくなったりすることで、組織が活性化する効果だ。だが、多くの公立学校では、本当にそうなっているだろうか?
「前任校ではこうだった」と言えない職員室
というのも、「前任校では(前の学校では)こうだった」という言い方をすると、職員室であまり好感を持たれないという話を耳にした。露骨に嫌がる校長も一部にいると聞く。言い方や受け手の感じ方によっても違ってくる話だろうが、問題提起や自分とは違った視点を嫌がる人が一定数いるということだと思う。
「郷に入っては郷に従え」あるいは「同調圧力」と表現してもいいかもしれないが、若手の教職員や異動してきたばかりの人が異論やアイデアを出しにくい職員室もある。何人もの校長から「校長として赴任した1年目は、まずは様子見です」といった言葉を聞いたことがある。「そんな悠長なこと言ってたら、目の前の子は卒業しちゃう」と思うのだが。
もちろん、すべての公立学校がそうだとは言わない。だが、異論やフレッシュな視点はウェルカムとする学校と、そうではない学校があるのは、おそらく確かだろう。心理的安全性の高い職場とそうでない職場と言い換えてもいい。
心理的安全性が低く、異論が出てきにくい学校では、いくら人事異動があっても、組織の活性化にはつながらない。むしろ、不慣れな職場で仕事が非効率になるなどのデメリットのほうが大きいかもしれない。
なぜ、問題提起や異論が歓迎されないのか
「前の学校では……」が歓迎されない職場の背景にはさまざまなものがあるのだろうが、ここでは3つの事情に整理してみたい。
第一に、学校は、問題点の指摘に疲れてしまっているのかもしれない。保護者や地域からの執拗なクレームに疲弊している学校もあるし、そうなることを恐れて、非常に気を使っている校長、教職員は多い。例えば、小学生が転んでケガをするなんてことは日常茶飯事だが、それを保護者にたいへん丁寧に事情を話す担任の先生は少なくないのではないか。
文部科学省や教育委員会からも、たびたび文書や調査が来て、「あれに注意せよ」「これはどうなっている」と言われる。私も含めてだが、外部の者やメディアはいろいろ論じて、たびたび学校を批判する。「もう、これ以上ごちゃごちゃ言わないでくれ」と言いたくなる校長、教職員がいることは、理解できなくもない。
第二に、目の前のことが忙しすぎるために、考え直すのを面倒がっている可能性がある。世間的には必要性がよくわからない校則がいまだに続いている理由の1つも、これに当たるかもしれない。「なんでそんなルールが必要なんですか?」と疑問に思っている先生もいるのだが、真剣に検討し始めると、多大な時間や調整の手間がかかる。それよりも明日の授業の準備をしたい、という人もいるだろう。
第三に、これまでの学校の組織運営上、異論やアイデアを大切にするという学習をしてきていない可能性がある。言い換えれば、子どもたちには「主体的で対話的な学び」を求めている大人の教職員集団が、対話や議論の練習があまりできていない。
だが「前の学校では……」と言う教職員が嫌われるというのは、おかしな話だ。業務上必要なアイデアを出しているだけで、人格攻撃ではないし、人間関係をないがしろにしようとしている発言でもない。アイデアや価値観の対立を、人間関係の対立と誤解してしまう人がいるとすれば、もう少し冷静になったほうがよい。
組織の多様性や異論は、なぜ大切なのか
こうした3つの背景のいずれか、あるいは別の事情もあるかもしれないが、だからといって、本当にこのままでいいのだろうか、と少し立ち止まって考える必要があると思う。
むしろ「こんにち」複雑な問題に直面している学校では、フレッシュな視点や多様なアイデア、異論をもっと大切にしていく必要性のほうが高い。
下の図(マシュー・サイド著『多様性の科学』ディスカヴァー・トゥエンティワン刊を参考にした)をもとに説明しよう。長方形は、ある問題解決などの際に必要となる知見の範囲だと考えてほしい。円は、その人がカバーしている知見の範囲だ。
左側の図は、数十年前の昭和の学校運営のイメージである。校長の豊かな経験や見通しによって、ある程度の問題がうまく処理できていた時代を図示している。昔の学校のほうが暴力事件や非行なども多くて大変だったという見方もあるとは思うが、ここではひとまず、そういうイメージで捉える。
「こんにち」は、VUCA(Volatility:変動性、Uncertainty:不確実性、Complexity:複雑性、Ambiguity:あいまい性が高い状況のこと)の時代といわれる現在を指す。学習指導要領の改訂の際などでもよく言われたことだが、変化が激しく予測困難な時代に、私たちは生きている。右の長方形のほうが、かつてより広がっていると捉えることができよう。校長がいくら優秀でも、1人の知見では限界があり、盲点となる部分が生まれて、うまく対処できない問題などが多くなってきていることを図示している。
もっとも、校長のワンマン、あるいは独断で学校運営をしているところは、それほど多くないかもしれない。教職員の意見をよく聞いている、教頭や学年主任らとよく相談しているという校長も多い。しかし、そうしたことだけで十分だろうか。
あなたの学校では、多様性は高いか
次に、こちらをご覧いただきたい。
左側は、同質性の高い集団の場合だ。学校では、大多数を占めるのは教員であり、学校や地域によっても違いはあるが、バックグラウンド(育った家庭環境など)や価値観が比較的似通っている職場が多い。もちろん、子どもたちや仕事を通じて、さまざまな経験や学習をしているので、一概には言えないが……。教員以外のスタッフや児童生徒、保護者などの知見はあまり参照されないし、活用もされない学校をイメージしている。
左側の図で示しているのは、校長と多少の違いはあれ、似通った考えをする人が多い画一性の高い集団なので、円のカバーする領域がかなり重なるということだ。結果、盲点となる部分や、苦手な部分がカバーされない。
望ましいのは、真ん中だ。多様性の高い集団になれば、さまざまな知見を参照し、アイデアを掛け合わせることで、問題解決などに必要な領域をかなり広くカバーできるようになる。
一方、右側は多様性はあるものの、その問題解決などに詳しくない人を集めている場合を指す。素人の発想が案外本質を突いているときや専門家に気づきを与えるときなどもあるが、問題解決などに必要な領域をカバーできる知見を持ち合わせていない人を集めたところで、たいして役に立たないことが多い。
「前の学校では……」が歓迎されない職場は、左側に近い。これまでの学校のやり方や慣習、前例にとらわれた人ばかりで、疑問を差し挟む余地がなく、批判的な思考が働かないような職員室では、うまく対処できない問題が多くなる。それで、トラブル対応が後手後手となるなどして、さらに疲弊していってしまうといった悪循環に陥る。
前述したように、今の学校は、いわばキャパオーバーとなっている側面があって、異論やフレッシュなアイデアを受け入れる余力がなくなってきていることは、理解したい。そこには負担軽減などの対策を講じつつも、同質性の高い教員集団のままでいることの危うさも考えていきたい。「前の学校では……」という話も含めて、目の前の子どもたちがよりよくなるために、多くの人の知恵が生きる「学習する学校」が増えてほしい。
(注記のない写真:maroke / PIXTA)